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第十二話:三盛亀甲花菱のこころ

「――実に、業腹ですね」


地の底から響くような、低く、冷徹な声。

圧倒的で底知れぬ「闇」のオーラを纏い、四人の前に立ちはだかったのは、数百年の時を超えて江戸の裏側を支配し続けた黒衣の宰相――南光坊天海だった。


「徳川の世は終わった。しかし、私が築いた江戸――東京の結界は、この国の安寧のために永遠でなければならない。そのためには、どうしてもその娘の純粋な魂と、徳川の濃い血を引く器が必要なのです」


天海が禍々しい錫杖を静かに床へ突き立てた。その瞬間、目に見えない巨大な霊圧が空間を激しく支配し、リリの魂が強引に捕らえられた。


「あっ……!」


見えない鎖に縛られ、リリの身体は祭壇で時を止めたまま眠る自身の肉体へと、無理やり引きずり込まれていく。天海は彼女の魂を強制的に肉体に縛り付け、「究極の要石」を完成させようとしていたのだ。


絶望的な空気が支配しかけた地下空間。しかし、湊の血を吐くような叫びが、二人の陰陽師の魂を激しく叩き起こした。


「道徹さん! 美晴さん! 一瞬でいい、彼の防御をこじ開けてください!」


床に倒れ伏し、口の端から血を流しながらも、美晴と道徹はゆっくりと立ち上がった。


「……私の清浄な術式に、貴方の泥のような呪力を混ぜるなど、死んでも御免ですが」


美晴がふらつく足に力を込め、素早く印を結んだ。彼女の指先から、安倍晴明の血脈を引く「正統」の証――純白の浄化の光が溢れ出し、空間に巨大な五芒星の桔梗印を展開する。


「奇遇ですね。私としても、貴方の堅苦しい光など反吐が出るほど嫌いですが……今日だけは、我慢して差し上げましょう」


道徹が自身の腕に鋭い爪を立て、自らの血を代償に蘆屋道満の血脈に連なる「異端」の証を引き出した。底知れぬ怨念を凝縮した赤黒い呪力の炎が渦巻き、禍々しい九字の格子印が浮かび上がる。


「「急急如律令!!」」


相反する二つの力が激しく喰らい合い、火花を散らしながら巨大な螺旋を描く『陰陽合体術』となって天海に殺到した。


「……愚かな。水と油を混ぜたところで、私の永き祈りには届かない」


天海が展開した絶対的な闇の防壁が合体術を受け止める。しかし、美晴の光が結界の「理」を中和し、そこへ道徹の闇が毒の刃となって貪欲に食い込んでいく。相反する力の大爆発により、何百年もの間、誰も傷つけることのできなかった天海の絶対防壁に、ついに一条の深い亀裂が走った。


「湊さん、今です!!」


二人が命懸けでこじ開けた亀裂に向かって、湊は弾かれたように床を蹴り、天海の懐へと飛び込んだ。そして、彼が持つ錫杖を素手で力いっぱい握りしめた。


「うおおおおおっ!!」


湊は自身の精神が粉々に砕け散るほどの激痛に耐えながら、命を懸けた極限の〈遺品感応〉を試みた。天下泰平の大義名分の裏で、自らが「神」となって日本を永遠に支配しようとした天海の狂った妄執へ直接ダイブし、その精神を内側から激しく揺さぶる。


「ぐっ……! 小僧、貴様……!」


天海の表情が初めて焦りに歪み、リリを縛っていた見えない鎖がふっと緩んだ。


「リリさん、今です!!」


湊の声に導かれ、リリは最後の力を振り絞り、水晶の寝台で眠る自らの肉体へと勢いよく飛び込んだ。


眩い閃光が走った。

数百年の時を経て、初姫の「魂」と「肉体」が完全に統合された瞬間だった。


その時、奇跡が起きた。

かつて実母の江と、育ての母であるお初が、天海の手から娘を守るために肉体に幾重にも施していた「命懸けの祈りの結界」。それが魂の帰還をトリガーにして、内側から爆発的に発動したのだ。


さらに、お初が命懸けで育て上げた姉・完子の末裔である湊の身体に流れる「浅井の血脈」が、それと強烈に共鳴する。戦国の動乱から愛する娘たちの命を何としても守り抜こうとした、母たちの凄まじい執念と深い愛が、今ここに天海を討つ最強の矛となって顕現した。


「私はもう……誰の生贄にもならない! 私の命は、私自身のものだ!」


起き上がったリリの全身から、天海の闇を切り裂く太陽のような眩い破魔の光が溢れ出した。気高き姫君としての力と自我を完全に取り戻したリリの叫びが、一族の永きにわたる祈りとなって地下空間を満たしていく。


「馬鹿な……この私が、時代に置き去りにされるというのか……」


圧倒的な愛の光の前に、天下泰平という呪縛に囚われた黒衣の宰相の怨念は溶け落ち、完全に浄化されて消滅した。


ゴゴゴゴゴ……!


主を失い、激しく崩壊し始めた赤城山の地下結界から、四人は間一髪で脱出した。

外に出ると、冷たく澄んだ空気が肺を満たし、山の稜線の向こうに美しい朝焼けの空が広がっていた。


「……あ、あははっ」


荒い息をつきながら、リリは自分の両手を見つめた。そこにあったのは、かつての透き通っていた魂の輪郭ではない。朝日の温かさをじんわりと弾く、確かな重みのある、温かい手。


胸にそっと手を当てると、衣服越しにトクン、トクンと、数百年ぶりに力強い心臓の鼓動が手のひらに伝わってきた。ポロポロと、大粒の涙が朝日に光ってこぼれ落ちる。冷たい風が頬を撫でる感覚さえも、今は愛おしかった。


湊は優しく微笑み、生身の人間となった彼女に向かって、深く頭を下げた。


「おはようございます。……リリさん」


涙を拭い、朝焼けの光を全身に浴びながら、彼女はこれ以上ないほどの満面の笑みを向けた。


「おはよう、湊さん!」


何百年もの間、時の狭間で凍りついていた時計の針が、今、確かな音を立てて動き出した。

生霊と案内人ではない。一人の少女と、一人の青年として。二人の新たな「生きた時間」が、暁の空の下で静かに幕を開けたのだった。

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