三秒後
鏡の中の自分がおかしいことに気づいたのは、三日前の朝だった。
築四十年のアパート。ひどく冷え込んだ朝で、私は息を白く吐きながら洗面所の前に立った。蛇口をひねろうと右手を伸ばす。だが、鏡の中の私は、私よりも先に水を出し、両手でそれを受け止めていたのだ。
寝ぼけた頭が見せた錯覚かと思った。目をこすり、もう一度鏡を見る。
私が歯ブラシに手を伸ばすより先に、鏡の中の私はすでにそれを口に含み、シャカシャカと上下に動かしている。私は洗面台に両手をついたまま、微動だにしていないというのに。
鏡の中の私が、現実の私よりも常に「三秒早く」動いていた。
いや、違った。
私が鏡の動きを予知しているのではない。鏡の動作を、現実の私が三秒遅れで「強制的にやらされている」のだ。
最初は抵抗を試みた。
鏡の私が顔を洗い始めたのを見て、私は意地でも動くまいと、両手を後ろ手に組み、指をきつく絡ませて壁にもたれかかった。
三秒後、私の肩の筋肉が、内側から見えないワイヤーで引っ張られるように異常な収縮を起こした。
「ぐっ……!」
声にならない悲鳴を上げる。自分の意志とは無関係に、腕が強引に前へ引き出されようとする。絡ませた指の関節がメキメキと嫌な音を立て、肩の筋繊維がブチブチと断裂するような激痛が走った。
耐えきれず指がほどけた瞬間、私の両手は弾かれたように蛇口へ伸び、冷たい水を掬い上げて自分の顔面へ激しく叩きつけた。
自分の体が、自分のものではない。まるで他人の冷たい肉の塊に閉じ込められたようだった。
それからの二日間は、純粋な地獄だった。
鏡だけではない。夜の窓ガラス、スマートフォンの黒い画面、電源の落ちたテレビ、果てはスプーンのふくらみに至るまで、少しでも光を反射するものに自分が映り込めば、その瞬間から主導権は「あちら側」へと移る。
テレビの液晶に映った私が立ち上がれば、私は這いつくばっていても、足の骨が折れんばかりの力で強制的に起立させられた。窓ガラスの私が無表情で頭を掻けば、両手に熱湯の入った鍋を持っていようが、それを放り出して頭に手を伸ばさせられる。
私は家中の反射物にガムテープを貼り、窓には段ボールを打ち付けた。スマートフォンはハンマーで粉砕し、暗闇の部屋の隅で、ただ膝を抱えて震え続けるしかなかった。
何も見なければいい。何も映らなければ、私は私のままでいられる。
汗と埃と、すっかり澱んでしまった空気が充満する密室で、私は丸二日間、一睡もせずに耐え抜いた。
そして、三日目の今朝。
極度の睡眠不足と脱水症状で、私の意識は混濁していた。ひび割れた唇を舐め、水を求めて無意識に洗面所へとふらつく足を踏み出してしまったのだ。
暗い廊下を抜け、青白い蛍光灯の紐を引く。
歯磨き粉のミントの匂いと、排水溝からの微かなヘドロの臭いが鼻腔を突く。
顔を上げた瞬間、私は絶望で息を呑んだ。
洗面台の鏡。私が貼ったはずのガムテープが、古いアパートの隙間風によるひどい冷え込みと結露ですっかり粘着力を失い、剥がれ落ちて床に丸まっていた。
むき出しになった冷たい鏡の向こうで、ひどくやつれた私が、じっとこちらを見つめていた。
三秒遅れて、私も直立不動で鏡を見つめさせられる。
引き返そうと、脳内で必死に両足へ命令を送る。だが、足首はコンクリートで固められたように微動だにしない。鏡の中の私が、そこから一歩も動いていないからだ。
ふと、鏡の中の私が、ゆっくりと左手を動かした。
洗面台の端。そこには、昨日ガムテープを切るために使い、そのまま置き忘れていた、ステンレス製のハサミがあった。
(やめろ)
声を出そうとしたが、喉の奥が張り付いたように動かない。鏡の私が口を固く結んでいるせいだ。
鏡の私は、ハサミの冷たい金属の柄をしっかりと握りしめた。
チャキッ、と刃を開く。
そして、一切の躊躇なく、その鋭利な刃先を見開いた自らの左眼球へと真っ直ぐに向け、深々と突き立てた。
音は、なかった。厚いガラスの向こう側で起きている無音の惨劇。ただ、鏡の中の私の左目から、どす黒い血と透明なゼリー状の液体が混ざり合い、ボタボタと白い洗面台へ滴り落ちていく。
激痛に顔を歪めることもなく、鏡の私は、三秒後の私に向かって、口の端を耳元まで引き裂かんばかりにニチャリと吊り上げた。
血に濡れた歯が剥き出しになる。
たった三秒。抵抗する暇すらなかった。
私の右腕が、異常な力で跳ね上がり、洗面台のハサミを握りしめた。左手で押さえる間もなく、腕は強引に振り上げられ、躊躇なく私の右目へと突き刺さった。
ぐちゃり。
濡れた肉を潰し、薄い膜を引き裂く醜悪な音が響いた。
「————ッ!!」
視界の半分が唐突に弾け、真っ赤に染まる。脳髄を直接かき回されるような激痛。
悲鳴すらまともに出ない。呆然とするほどの、あまりにもあっけない喪失だった。
残された左目の、血のにじんだ視界の先。鏡の私が左目からハサミを無造作に引き抜いた。
そして、今度は、無傷の右目へとその鋭利な刃を向けた。
嘘だろ。
やめてくれ。
残された目から涙がボロボロとこぼれ落ちる。
一。
私の右腕が、自らの右目から強引にハサミを引き抜いた。痛みに膝が折れそうになるが、足首はコンクリートで固められたように動かない。
二。
ゼリー状の血にまみれた銀色の刃が、私の左目に向けられる。左手で必死に右腕を押さえたが、いとも容易く振り払われた。
三。
鋭い切っ先が、極限まで見開かれた左目の表面にピタリと当てられた。
刃が眼球に食い込む直前。恐怖とパニックで沸騰しそうな頭の片隅で、私はふと、奇妙なほど冷たい安堵に包まれていた。
これでやっと、鏡を見ずに済む。
〈了〉




