土砂降りの雨と幸せのドアマット
「……お母様、雨が降り出したわ」
「すごい、いっぱいふってる」
「こういう激しい雨のことを、土砂降りと言うのよ」
我が家の長女と長男は、雨降りがあまり好きではないようです。
「遊びに出かけられなくてつまらないわ」
「おにわにも、でてはだめ?」
「そうね、雨で滑って転ぶと危ないから、我慢してね」
夕食まではまだ時間があるし、何をして気を紛らわせてあげればいいでしょうか。
そう思いながら、窓ガラスをたたく雨粒を眺めました。
わたしはむしろ、雨の日が好きかもしれません。
特にこんな土砂降りの日は。
ピンコット子爵家の一人娘に生まれたわたしは年頃になり、婿入りしてくださる方を探すことになりました。
幸いにも、その頃の子爵家には大きな困りごともなく、特に政略的なご縁は必要なかったのです。
仲人さんにお願いして見つけていただいた相手は、大商会を繁盛させていることで有名なタンストール伯爵家の四男ジェイラス様。
ご本人もすでに自分の商会を軌道に乗せており、しっかりとした経済力のある方です。
初めての顔合わせの日。
我が子爵家を訪れたジェイラス様は、今どきの若い男性にしては背が低め。
丸顔で柔和な顔立ちの方でした。
庭園をエスコートされながら歩けば、身長差が少ないせいで無理なく表情がうかがえます。
顔立ちのせいもあるのでしょうが、話し方にも振る舞いにも威圧的なところはひとつもありません。
一緒に過ごして、気持ちを楽にしてくださる方。
それが第一印象でした。
「ねえ、婚約者が決まったのでしょう?
どんな方なの?」
しばらく後、同じ年頃の令嬢が集まる茶会で知人に訊ねられました。
「穏やかで優しい方よ」
「ハンサムなの?」
「さあどうかしら?
わたしは好ましく思っているけれど」
「ふーん? それはわざわざ顔を見に行く必要もなさそうね」
そう訊ねた令嬢は恋多き人。
彼女は美形好みですから、彼は当てはまらなそうです。
もしもハンサムだと自慢気に答えたら、デート現場を急襲されたのでしょうか?
油断も隙もありません。
その日は、情報交換というよりも気晴らしのようなお茶会でした。
新しいカフェの評判とか小旅行に向いた近隣の観光地の話など、たわいない話題ばかりが次々と流れていきます。
「わたし、この前、婚約者に美術館に連れて行ってもらったのだけど」
別のご令嬢が話し出しました。
「人気画家の絵を集めた展示だったせいか人が多すぎて、ほとんど観られなかったわ」
そういえば次のデートは美術館に行く予定です。
あまり混んでいては疲れるだけなので、わたしは行き先を変更してもらった方がいいかしらと考えました。
けれどデートの日、予定通り訪れた美術館に思ったほどの混雑はありません。
一番人気の絵の前で、並んで感想を言い合えるほどに余裕がありました。
「本当に素敵な絵ですね。
知人から、人が多すぎてほとんど観られなかったと聞いたのですが」
「この美術館は、空いている日と混んでいる日がだいたい決まっているんですよ」
「まあ、それをご存じだったのですね」
「私は自分で商売をしていますから、休日も融通が利きます。
なるべくなら空いている日に観たいですからね」
「わたしも、ゆっくり観られて嬉しかったです」
「それは良かった」
柔和な顔の彼が微笑めば、わたしの気持ちも和みます。
わたしはとても幸せな気持ちになったのでした。
婚約したわたしたちは、少しずつ親交を深めていきました。
ジェイラス様は仕事があるので、ゆっくりとしたデートは月に一度。
商売に精を出している彼は、かなり人づきあいが得意と見えます。
なにかと情報通ですし、顔も利くようでした。
カフェやレストランでは良い席に通されるし、観劇や展覧会に行ってもがっかりするような催しはひとつもありません。
一度、例の恋多き知人に偶然出会いました。
彼女はハンサムな騎士らしき男性とデート中で、少しばかりこちらを馬鹿にした視線を寄越しました。
でも、わたしは少しも腹が立ちませんでした。
彼女の価値観などわたしには関係ありませんし、彼女の視線の意味に気づいたらしいジェイラス様も、まるで気にしていなかったのですから。
彼はデート中、いつでもわたしを楽しませようとしてくれるのです。
そんな婚約者にひとつも不満などありません。
やがて一年が経ちました。
その日は婚姻式前の最後のデートで、植物園に行く予定でした。
ところが天気が急変し、土砂降りの雨になってしまったのです。
『残念だけれど、婚姻後でも行く機会はあるでしょうし。
今日は、我が家でお茶をすればいいわね』
そう考えながら、エントランスへ出迎えに行きました。
馬車から降りた彼は、わたしを見つけるとすぐに笑顔を向けてくれます。
地顔でも笑顔のような彼ですが、この一年の間に、本当に嬉しいときの表情は読み取れるようになっていました。
「エレイン嬢、お出迎えありがとう。
でも、雨で冷えるから早く中に……おっと……お、お、お……」
馬車寄せには屋根があり、上から雨が当たることはありません。
しかし残念ながら、馬や馬車そのものから滴った水や泥は落ちてしまいます。
彼はそれに足を取られたのです。
見事に転んでしまい、デート用のおしゃれな服も雨水や泥でひどい有様になりました。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと滑ってしまっただけだ」
周囲の使用人たちまでも安心させるような笑顔のジェイラス様。
立ち上がることが出来たので、わたしもひとまず安心しました。
「滑り止めをしておくべきでした」
平謝りの執事にも、大丈夫大丈夫と応える彼。
「出迎えの婚約者に見とれて失敗したのは私だから」
ポロリと本心がこぼれたように聞こえる言葉に、わたしは一瞬固まってしまいます。
そして、一気に頬が熱くなるのを感じました。
「……と、とにかくお風呂と着替えを急いで用意して。
お風邪など召されては大変ですもの」
使用人たちに、慌てて指示するのがやっとでした。
「今日はごめんね。植物園はまたの機会に……」
その後、湯あみを済ませた彼と談話室でお茶にしました。
「ええ、そうですわね。
……あの、転んだ時にどこか怪我をしませんでしたか?」
「大丈夫だよ。少し赤くなった程度で腫れもない。
介添えをしてくれた従僕にも見てもらったし。
それにしても、みっともないところを見せてしまったなあ」
皆をすぐに気遣える態度は、少しもみっともなくなどなかったのですけれど。
「あの時、あんな冗談をおっしゃれるくらいだから、大丈夫とは思っていましたけれど」
「冗談?」
「わたしに見とれたなどと……」
「あれは、冗談じゃなくて」
「え?」
「そのせいで転んだかどうかまではわからないけれど、見とれたのは本当だ」
「あ、あの?」
「君は綺麗だ」
そう言って微笑んだジェイラス様を見て、わたしは彼に触れてみたくて堪らなくなりました。
少しずつ顔を近づけていっても、彼は優しく微笑んでいて……そっと受け止めてもらえそうな気がしました。
「そこまでよ!」
バーンと音を立てて部屋に入って来た母が、大きな声を出しました。
婚姻前の男女が二人きりになれるはずもなく、メイドも従僕も、そこに居たのです。
誰かが母に知らせたのでしょう。
「どうして、すぐに止めなかったの?」
母が、ずっと控えていた古参のメイドに訊ねました。
「ジェイラス様は節度ある大人の男性ですし、いざとなればご自分でなんとでもなさるでしょうから」
確かにそうです。わたしは触れようとしただけで、襲いかかったわけではないのですし。
湯上りでほかほかの彼が乱れた髪のせいでいつもより若く見えて、なんだか美味しそうと思ったのは黙っていればわからないはず。
それはとても、はしたない気持ちかもしれません。
でも、彼がわたしにとって特別な、この世に一人だけの大事な人だと自覚したのです。
「ジェイラス様、あなたはどうお思いなのでしょう?」
母の口調は少しきつめでしたが、彼は動じませんでした。
「婚約当初から、エレイン嬢の好意は感じていました。
しかし、まさに今、それが深まる様子を目の当たりにしたのです。
とても止める気になどなれませんでした」
わたしの気持ちなど彼にはお見通しで、ただ俯いて、熱くなっていく頬を押さえることしかできません。
彼の態度が冷静だったせいか、母も矛を収めました。
「あなたたちの仲が深まるのは悪いことではありませんが、あと少しの間は気を付けてちょうだい」
「はい、お母様」
「申し訳ありませんでした」
婚姻式は一週間後です。
その間は予定がぎっしりで、ジェイラス様とはお茶をする暇もありません。
ふと気を抜くと、彼に会いたくてたまらなくなったわたしには、少しばかり辛い時間になりました。
それから十年が経ちました。
わたしたちは無事に婚姻し、その後、女の子と男の子の二人の子宝に恵まれたのです。
ジェイラス様は我が家で経営していた小さな店も吸収し、今ではそれなりの規模に発展した商会の舵を取っています。
忙しい毎日ですが、家族の団らんも大事にしてくれる良い夫です。
「あ! お父様が帰って来たんじゃないかしら?」
耳の良い長女が雨の中から馬車の音を拾ったようです。
いつもより早いですが、天気のせいで予定が変わったのかもしれません。
子供たちと玄関まで出ると、夫はもう扉の中へ入っていました。
「おかえりなさい、お父様!」
「おかえり、とうさま」
「ただいま!」
「おかえりなさい、あなた」
「今帰ったよ、エレイン。
転ぶんじゃないかと心配して駆けつけてくれたのかな?」
「そうよ、ジェイラス。無事でよかったわ」
わたしたちは笑い合います。
婚姻前のあの土砂降りの日、彼には怪我が無くて幸いだったのですが、万一ということもあり得ました。
新婚気分が落ち着いたころ、その幸運について夫に力説したのです。
本当に本当に、運が良くて助かったと。
あまりにわたしが真剣だったので、夫は思うところがあったようです。
やがて絨毯を名産にしている、とある伯爵家に滑り止めマットの開発を持ち掛け、共同事業を立ち上げました。
それが今では貴族家用の高級品から庶民向けの品まで幅広い展開となり、売れ筋商品になっています。
わたしの訴えから生まれた商品だからと、発売時に夫から命名を頼まれました。
しばらく時間をもらい、わたしは『幸せのドアマット』と名付けたのです。
安直な名前ではありますが、土砂降りの雨の日でも皆が幸運に恵まれますようにと、そんな願いを込めました。




