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容疑者

【???】

 冷たい雨がしとしとと降り注ぐ。最近暖かな日差しが戻ってきたと思ったら、今日は左手に握る傘の柄さえ冷たく感じる。先週大学生になったばかりの女性は、スーパーの袋を片手に路地裏を歩く。雨脚は強くないだが、明日以降も降りそうな気配だった。もうイチョウも散ってしまうかもな、と大学通りの金色の染まるイチョウ並木を思い浮かべる。


 ざわり。


 近くの木々が風に煽られ不気味な音をたてる。


 やっぱり大通りを通るんだった。女性は薄明かりの道を急ぎ足で進む。


 女性がこの街に引っ越してからまだ一月と経っていない。活気のある商店街、街中を走る路面電車、新しく住み始めた坂の上の住宅街。全てが新鮮に、希望に満ちあふれていた。


 その町が今は酷く息苦しい。見慣れぬ住宅街、雨に打たれる小さな公園、足元に転がっているのは子供たちが遊んでいたのであろう小さめのサッカーボールが転がっている。公園の木がこちらを手招く人影に見える。昼間は家族連れでにぎわうであろうこの場所も夜は何人も寄せ付けぬ雰囲気をまとっている。


 ざわり。


 傘を握り締め女性は今日の晩御飯について必死に考える。


 元々母親の料理を手伝っていたこともあって、女性は料理の腕に自信がある。ロールキャベツに関しては親を越えたと高校生の妹からのお墨付きだ。今日は餃子入りの中華スープを作るのだ。それを食べればこの肌寒さも吹き飛ぶだろう。その前にお風呂だ。暖かいシャワーを目いっぱい浴びて、全身を濡らす雨を洗い流そう。そうした後にのんびりとテレビでも見ながら―。



 全身を濡らす雨?



 気づけば女性の全身は濡れていた。緑色のカーディガンは水を吸ってモスグリーンに色を変え、ブラウスは肌にまとわりついている。肩甲骨まで伸びる黒い髪が肌に纏わりついている。


 雨は相変わらずさほど強くない。傘を叩く雨音で分かる。



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 自然と歯がカチカチと音をたてる。吐く息が白い。体の震えが止まらない。傘をできるだけ目深に掲げ、女性は五十メートル程先の明るい通りをめざす。あそこなら明るく車の通行も多い。あの明るいところまで急ごう。東京の夜のいつまでも眠らない雰囲気が嫌いな女性でも今は酷く明かりが恋しい。


 ざわり。


 後二十メートル。女性は、もうほとんど走っていた。後ろに何かいるように感じる。足元の水たまりを散らすたびに足元を掴まれるような感覚に陥る。左手の袋がガサガサと音をたてる。息遣いが荒くなる。さまざまな感覚が交差するなかで、背中にまとわりつく寒気が拭えない。叫ぼうとしても声が出ない。まるで喉元を掴まれているような―。


 女性の視界が急に明るくなった。肩で息をしながら周りを見渡す。どうやらT字路に出られたようだ。オレンジ色の街灯が等間隔で並び、その明かりの下を乗用車がくぐって行く。数軒先にはコンビニだろうか、眩しいほどの白い光が駐車場に漏れ出し、人の姿もちらほらと見える。


 女性はしばらく立ち尽くした後、安堵したように笑みを浮かべ、深呼吸をする。呼吸が落ち着いたところで、コンビニの方へ足を向ける。食材を買ったはいいが疲れてしまった。なにか惣菜になるものでも探そうと考えた。


 それにしても先ほどの悪寒はなんだったのであろう。女性は曲がり角の方を振り返る。



 目の前にレインコートを着たなにかが立っていた。反応するよりも前に、黒い手袋が女性の口元に伸びてくる。



 女性の上げた短い悲鳴は、三トントラックの走行音にかき消された。







【星原朱里】

 街で連続傷害事件が発生している。若い女性を狙った犯行はこの二週間で三人目。三人とも何者かに襲われて意識を失っており、しかし目立った外傷はない。隕石騒動でざわついた街に、再びマスコミがちらほらと現われるようになった。街中の監視カメラには、犯行現場付近で藍色のレインコートを着た身長一八〇センチ弱の人物が彷徨いているのが目撃されており、その「青合羽」を第一容疑者として捜査しているようだ。


 当然のことながら、我が白窪第一高校でも集会が開かれ、登下校時の寄り道禁止や、教師と保護者会による各所での見回りが開始されることが伝えられた。


 体育館での学年主任の言葉を聞きながら、斜め前に座る月島くんの様子を伺う。体育座りでここまで背筋を伸ばせるものなのか、と感心するほど模範的な座り方だ。包帯はなくなり、髪も少し伸びてきている。


 学年集会が終わり、解放された生徒たちは話し相手を求めて交差する。月島くんは独りぼっちで、しかし堂々とした歩みで体育館から出ようとしているところだった。


 猫背が改善されてから気づいたが、月島くんは結構身長が高い。一七〇センチはゆうに超えているだろう。生徒の群衆のなかにあっても、頭ひとつ抜けている。


 私はその後頭部を見ながら、雨の日に登校してきたときの彼の姿を思い出す。


 月島くんの雨合羽の色は、たしか青色だったな。







「先生、ご苦労さまです。さようなら」


 校門前で見送りをする秋山先生に、月島くんが丁寧にお辞儀をする。秋山先生は柔和な微笑みのまま「はい、さようなら。気をつけてね」と返礼する。生徒たちからは極力関わらないように避けられているが、礼儀正しい今の月島くんは、教師陣からの評価は高そうだ。


 月島くんは、スタスタと大股で校舎横の通りを歩いていく。私は気づかれない程度に距離を空けて、彼の後を追う。尾行というほどのものではない。途中まで帰り道は一緒だ。それまでにとくに怪しいところがなければそのまま帰るつもりだった。


 結論から言うと月島くんの下校する様子は怪しさしかなかった。挙動不審に周囲をキョロキョロと見回し、道端に植え込みがあれば葉をかき分け、自販機があればその下を覗き込んだ。門扉の前でわんわんと吠える犬をじっと見つめて呪文のような言葉を唱え、犬を怯えさせていた。終いにはスマホにしては分厚すぎる謎の機械を取り出し、ダウジングするかのようにあちこちにかざし始めた。目標物が近くに見つけたときなのか、時折ギョオンギョオンと無駄にでかい音を奏でるので、道ゆく人が肩をびくつかせていた。ただ、月島くんがあまりにも堂々と晴れやかに対応するものだから、誰も深く首を突っ込もうとはしなかった。


 夕焼け色が濃くなってきたころ、月島くんは葦井(あしい)緑地に入っていった。古くは城郭があった場所が改築された自然公園であり、今は市内有数の広さを誇る緑地が広がっている。


 月島くんが公園内に足を踏み入れてから、少し経ってから後を追ったが、見失ってしまった。人の往来が多く、一度見失うと探すのがむずかしい。


 私は隠れるのをやめて、大手を振って公園内を歩くことにした。高校生が放課後に葦井緑地を散歩している光景は特段おかしなことではない。月島くんに見つかっても適当に誤魔化せばいい。


 葦井緑地は親子連れでにぎわっていた。遊具エリアでは児童たちが甲高い声を上げながら思い思いに体を動かし、学校のグラウンドほどある緑地では小学生たちが走り回っていた。木陰のベンチには子どもを見守るマダムたちが世間話に花を咲かせている。


 私は緑地の端を通って、展望台へと続く階段に足を踏み込んだ。


 葦井緑地の西側には、昔、物見櫓があったという小高い丘がある。そちらにもいくつかの広場があり、最上部には展望台が立っている。展望台への道中は紅葉樹の林となっており、先月まではモミジの紅葉がみごとで、多くの人が押し寄せていた。今はすっかり葉が落ちきっており、木枯らしが枯葉を擦らせるガサガサとした音が私の耳の奥をくすぐる。


 丘を半周するように登っていく階段の途中で、第二広場に到着した。ベンチに水飲み場、公衆トイレがある簡素な広場で、展望台ほどではないが市内の南側の街の眺望がよい。


 下の緑地にいないならここか、と当たりをつけたのだが、予想は外れたらしい。展望台か、もしかしたら公園を素通りして帰宅してしまったのかもしれない。


 南側の柵に手をかけて街を見る。ちょうど隕石が上空で爆発した東地区が眼前にあった。家の屋根や外壁にブルーシートがかけられ、工事車両が何台も行き交っている。日本人の九割以上の関心は薄れても、確かにここに爪痕が残っている。


 月島くんの住まいもこの辺だったはずだ。帰りに東地区を少し歩いてみようか。そう思いながら振り返る。




 レインコートを着たなにかが広場の中心に立っていた。




 青の雨合羽は強い夕焼けに照らされて、むしろ塗りつぶされた黒に見える。本来顔があるはずのフードの下は、伸びる影よりも底が見えない。だらりと脱力した両腕の袖からは、カートゥーンに出てくるような不均衡な大きさの手袋が飛び出していた。足元の長靴も、顔よりも大きい。


「×××××」


 なにか言っているようだが聞き取れない。呼吸をしていないかのごとく、その場に静止していた。その小さな呪文のようなつぶやきが聞こえるほど、不自然なまでに周囲から音が消えている。


 私はその場に立ち尽くしていた。動けば、相手が飛び掛かってくる予感があった。柵をもつ左手に汗がにじむ。口の中に唾液がたまるが、唾を飲み込むことすら憚られる。逃げることも、目線をそらすこともできず、ただただ時間が過ぎていく。


 ガア。


 一羽の烏が鳴いた。


 その瞬間に、レインコートは雄たけびをあげ、こちらに飛び掛かってきた。気づけば眼前にフードがあり、その口元が見える。ナイフよりも鋭く、人混みよりも不揃いな幾重もの歯が、私の喉元に食らいつこうとしていた。私はとっさに左手をかざして――。



「ムカチャッカファイヤーッ!」



 怒声とともに、月島くんが空から躍り出て、レインコートの右わき腹に飛び蹴りを食らわせた。レインコートは吹っ飛ばされ、ベンチに体を強く打ち付けた。


 月島くんは左足を前に出し、両の手を鳩尾の前に縦に構える。力を抜きながらも隙がない。月島くんの立ち姿勢に、教科書で見た剣豪の肖像画が重なった。


 のそりと起きあがろうとするレインコートに言い放つ。


「抵抗せずに投降しろ。今の俺はMK5(マジでキレる五秒前)だぞ」


 レインコートは吐瀉物をまき散らすような水気を帯びた雄たけびを上げ、四つ足で地面を蹴り我々に飛び掛かってくる。フッと月島くんの姿が消えた次の瞬間には、すでに右手が突き出され、レインコートの頭を突き破った。破壊された頭部からは緑色の液体が噴出し、そのまま力なく倒れこんだ。


 月島くんは緑色に染まった右手をタオルで拭う。


「星原さん」


 私のほうを振り向いて、清廉な顔つきのまま言葉を紡ぐ。


「ぶっちゃけチョーワケワカメでゲロゲロだと思うけど、とりま話聞いてくれたらマジで神」


「……そうだね。聞くよ。私からも伝えたいことがあるし」


 とりあえず、現代人になるのは諦めて、固い口調に戻ってもらったほうがよさそうだ。


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