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桜ノ彼女

作者: 雨夜乃良

 どこからやってきたのか、ベランダに小さな薄紅の花びらが一つ落ちていた。

 桜の季節である。

 桜を見ると思い出す。ちょうど一年前のこの季節、彼女と出会ったことを――。


 或る春の日の早朝、ベランダでそんな思い出に浸ろうとした俺をアラームのデジタル音が引き止めた。慌てて部屋に戻りスマホの元へ走る。そのまま身支度を済ませてマンションを出た。

 午前四時、早朝と言っても日の出前、まだ薄暗く家々の明かりもほとんどついていない。街灯を頼りに歩くこと十五分。俺は大きな道路沿い、二十四時間営業のカフェに辿り着いた。ここまで来るとさすがに車も走っているし疎らな人通りもある。

 店内に入って目的の彼女を見つけ、すばやく席に着いた。眺めの良い窓際の席だ。


「遅い~」


咎めるように言いながら、彼女は先に注文していたらしいブレッドを頬張った。忽ち、にこにことした顔になる。彼女の仕事は夜勤が多く、それに合わせた早朝カフェは今回が初めてではない。こちらは覚えることがまだまだ多い社会人二年目、疲れていないと言えば嘘になる。休日とはいえ四時起きはつらいものがあった。


「ごめんごめん、目覚まし二回かけたんだけどな……。それ、何?」


 ~~【季節限定】桜の花びらが練り込まれたブレッドと桜味のカフェラテ~~


メニューを見せながら彼女が説明してくれる。俺は桜味のカフェラテを注文すると改めて彼女に向き直った。艶やかな黒髪は無造作に束ねられ、細く白い指がお皿と彼女の間を行き来する。間食なのか朝食なのかブレッドを食べるたび端正な顔は幸せそうに緩んだ。華奢な体のどこに入っていくのだろうと思うくらい彼女はよく食べる。

 彼女が小鳥のように首を傾けながら尋ねてきた。


「今日の約束、忘れてないよね?」

「ああ、夜桜を見に行くんだろ」


俺は出されたカフェラテを飲みながら答えた。くすんだ薄桃色の液体からは仄かに桜の香りがする。「良かった」と彼女は微笑んだ。彼女は桜が好きなのだ。俺の中にむくむくといたずら心が湧く。


「桜の木の下には屍体が埋まっているらしいよ」


そう言ってみた。昔の小説にもある。綺麗なピンク色なのはそこから養分を吸い取っているからって話だ。「怖い」と気味悪がって彼女は食べる手を止めた。困ったような笑みを浮かべて俺を見つめ、一言。


「いじわる」


かわいい…………。この顔が見たくてついからかってしまう。彼女は黙っていると落ち着いた大人の女性に見えるが、よく喋りくるくると表情を変える様子は愛らしい少女のようだ。自慢するつもりはないが、自慢の彼女だ。どうして俺と付き合っているのかと本当に不思議に思う。


 彼女と出会ったのは一年ほど前のこと。

 俺の住んでいる場所の近くに公園がある。川が流れ遊歩道も設置された広い公園だ。川沿いにたくさんの桜が植えられていて春は毎年花見客で賑わっている。公園のはずれに小高い丘があり桜の木が一本植わっていた。川沿いの賑わいとは対照的に丘の桜は静かな佇まいであった。人知れず、爛漫と咲き誇る。夜ともなると紺青の空を受けて紫色を帯びているようにも見えた。幻想的で、どこか妖しさも漂わせている。人を惑わせるかのような……。

 その夜、俺は桜を見ようと気まぐれに公園を訪れた。花見客の喧騒を避ける内、一本桜のことを思い出して丘の方へと足を延ばす。そこで桜の傍に立っている彼女を見つけたのだ。舞い散る花びらの隙間から見えたのは、涙を流す彼女の顔だった。とても儚げで美しく、俺の心は捉えられてしまった。気になって毎日のように桜の元へ通った。彼女はいつもそこにいて、言葉を交わすうち仲良くなったのだった。


 懐かしく思い出しながら、ふと疑問が湧く。あの時桜の元にいた彼女は、今とずいぶん雰囲気が違う。当時はなにか神秘的なものを感じたのだが……。曖昧になっている記憶を辿ろうとした。彼女は……あそこで……。


「どうして泣いていたんだ?」


思わず口をついて出ていた。


「なんのこと?」

「初めて会った時だよ。ほら、桜の所で」


彼女は口ごもったが、やがて小さな声で「……失恋したの」と言った。

 こんなかわいい彼女を振る男がいるのか? 愕然とする。信じられない。俺は顔も知らないその男に対する抗議を表明しようとしたが、彼女はそれを拒否するかのように無言で食事を続けている。三つ目のブレッドから桜色の花びらが一つほろりと零れ落ちた。彼女はそれに目を止めて、ふふと笑った。


「私、桜の花びらが好き。ピンク色でかわいらしくて」

「まあ綺麗だな」

「……なんだかおいしそうじゃない?」

「やっぱり食い気の方か」


俺は苦笑した。彼女はふくれながら主張する。


「こういうの今しか食べられないじゃない。一年に一度のことなのよ。三色団子や桜餅、桜味のラテだって」

「桜味のラテはともかく、定番のものならいつでも手に入るんじゃないか?」

「”今”食べるのがいいんです!」


俺は肩をすくめた。しかし彼女の気持ちもわかる。俺だって限定商品には弱い。最近は忙しくて足が遠のいているが、お気に入り商品の新作チェックだってそれなりにしていた。ということで、そこからは「どの店のあれがおいしい」だの「これは売り切れた」だの話に花が咲いたのだった。

 あっという間に時は過ぎ時刻は午前五時に差し掛かる。もうすぐ日の出だ。白みゆく空が短い逢瀬の終わりを告げている。店の前で彼女と別れると、俺は眠い目をこすりながら帰路についた。帰ったらベッドに倒れ込むだろうな。そう思いつつコンビニに立ち寄って桜味のチョコレートを買ってしまったが……。



 その日の午後、俺は微睡の中にいた。夜は彼女と花見をする約束がある。デートに備えて昼寝をすることにしたのだ。今朝は早く起きたせいもあって、俺はあっという間に眠りに引き込まれていった。


(ここはどこだ……?)


 雲一つない夜空が広がっている。上弦の月が辺りを淡い光で包んでいた。一本の桜がある。公園の青みを含んだ灯りに照らされて、桜は紫の光を纏っているかのようだ。見惚れるほどに美しかったが、どこか不安を感じさせる。満開の桜は風が吹くたび優雅に枝を揺らし花びらが舞った。その木の元に一人の女が立っていた。美しい女だ。長い髪が風でなびいている。透けるような白い肌。まだ肌寒い季節であるのに、袖のない白いワンピースを着ている。


(俺は夢を見ているのか。それとも記憶? そうか、彼女と初めて会ったあの時の……)


彼女が口を開いた。うっとりと桜を見上げている。


「花弁は好きじゃ。美しく吸い上げられた……血の色のよう」


彼女の口から一筋の赤い雫が流れ落ちた。血で染まった赤い唇、禍々しく輝く赤い瞳。足元には男が倒れている。赤く広がる血溜まりの中、男はピクリとも動く様子を見せなかった。


「この頃、人の血は、ほんのり桜の香りがする。なんと美味であることか」


彼女は唇を歪め、にぃっと笑った。刹那、記憶と思考が次々と繋がっていく。


(そうだ、彼女は吸血鬼だ……!)


花見をしながら生き血を飲むのが彼女のお気に入りの趣向だった。遺体は桜が処理してくれる。桜の頃は、彼女にとって晩餐の時節なのだ。夜の静寂と月の光に包まれた桜が舞台を整える。


「花見は楽しいなぁ、相棒」


彼女は桜の幹にコツンと額を当てた。妖しく艶やかに微笑えむ様はぞっとするほど美しかった。そして目が合う。心臓が跳ね上がった。


(この場を離れなければ……彼女は危険だ!)


思っているのに体が動かない。


(彼女は……! 彼女……俺の……?)


恐ろしいものがゆっくりとこちらに近づいてくる。


(付き合っている……? いつから?)


顔に白い手が掛かった。


(一年前は引っ越しと入社準備で忙しくしていた……公園に通う余裕なんてなかったはずだ。これは……昨日の……出来事……!)


残酷な笑みが目の前にある。


「次は主か?」


頭が真っ白になったその時、どこからともなくデジタル音の連続が聞こえてきた。目覚ましとしてスマホに設定しているアラームだ。


 ――ああ、約束の時間だ。


意識が覚醒する。恐怖は夢の中に剥がれ落ち、記憶が霧の奥へと消えていく。



 俺はベッドの上でむくりと起き上がった。カーテンの隙間から覗く夕日が部屋を朱に染めている。時刻は午後六時十分。早く支度しないと遅れてしまう。ぼんやりとする頭を振って着替え始める。なにか夢……を見ていた気がするが、思い出せない。まあ問題はないだろう。

 俺は家の鍵を引っ掴んで玄関に向かった。メッセージの着信を知らせてスマホが鳴る。彼女からに違いない。今から二人で夜桜を見に行くのだから。桜はそろそろ散り始めるとニュースで言っていた。花びらが舞い散る様子もまた美しいだろう。玄関を出てドアを閉めると、楽しみな気持ちを噛みしめるように鍵をかけた。

 彼女からのメッセージにはこうあった。



『桜の木の下で待ってる』



〈了〉

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