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憩いの山小屋で

 孝子は王道の人生だった。健やかに育って、そこそこの年齢になったら嫁入りし、子供を産んだ。生まれたのは娘だった。

 娘はとても賢かった。生まれ持った能力が優秀なら、躾も行き届いていた。娘はもっぱら本ばかり読んでいた。

 だが、娘が五歳になったばかりの時に夫が突然逝ってしまった。原因は流行病だった。死はあっけなかった。

 その頃からだ。娘が普通の子ではないことに気づいたのは。

 両親の仕送りだけでは生活出来ず、孝子は近所の八百屋に雇ってもらい、お金を稼いだ。孝子は母・八百屋という一人二役をこなさなくてはならず、想像以上に忙しい生活に突入したのだ。

 孝子は夫の死の悲しみと、生活の余裕のなさで、度々台所で手拭いで顔を拭いながら泣いていた。

 母親が涙を流しているのを子供ながらも心配したのだろう。

 夫が亡くなってから、娘は決してわがままを言わなくなった。物をねだったりもしないし、食べ物の好き嫌いも言わなくなった。

 ある日など、孝子が疲弊して座り込んでいると、娘は孝子に抱きついて泣きべそ顔で言ったのだ。


「お母さん、泣かないで。 もうちょっと大きくなったら、私がお母さんを助けるからね」


 その時はあまりに切なくなって、娘を抱きかかえておいおい泣いてしまった。

 私にとって、娘は自分の精神を保つ最後の砦だ。

 その時だった。


「そうよ。 私、お母さんの最後の砦になるわ」


 一瞬身体が硬直した。

 自分を納得させる説明を求めて、孝子の思考はしばらくあちこち彷徨った。

 孝子はすぐに思い直し、ひとり合点した。

 たまたまだろう。そんなはずない。娘が私の心の中を読むなんて――


「違うわ。 たまたまじゃないわ」


 孝子は信じられずに、ただ茫然と娘を見つめていた。

 それから孝子は自分の娘を観察し始めた。そしてそれは、孝子に新たな事実を教えた。とっくに気づいて良かったはずの現実。「まさか」と目を背けていた真実。

 娘は超能力者だ。

 その能力が如何なるものかは分からない。試そうと思ったこともなかった。孝子は自分の娘が怖かった。

 それ以上に怖かったのは、周りの反応だ。娘の超能力が周りに知られたら、どんな迫害を受けるか分かったものではない。

 それでも、孝子は娘を手放さなかった。どうして――どうして見捨てることができよう。地頭が良い、気立てもいい、何一つ欠けるところのない娘から、不当に平和な生活が取り上げられようとしている。孝子は娘の平穏を死守しなくてはならない。

 必ず守り抜いてみせる。

 そのために、孝子は娘と二人で山に篭った。

 食糧や生活の必需品は、定期的に麓から取り寄せればいい。唯一の懸念点は、盗賊だった。出来る限りの防犯対策と武器は揃えたが、安心はできない。

 だが、そんな心配も一瞬で吹き飛ぶような出来事があった。

 ある日の昼下がり、孝子が食事の準備をしていると、外で大きな音がした。それと同時に、男の悲鳴も聞こえた。

 慌てて外に出ると娘の前に、頬が腫れ、足がポッキリと折れた男が倒れていた。


「この男が強盗しようとしたから止めたの」


 その時、孝子は初めて娘に怯えた。震えあがってしまった。

 それ以降、孝子は無意識のうちに娘を避けていた。無論、本人には決してそれと悟られないように。

 月日は流れる。娘も成長する。

 ある日突然、娘は家出した。

 孝子は忘れない。娘が消えた前日に、彼女が冷ややかに言い放った言葉。


「お母さんは私にとても冷たい。 私のことを怖がってる。 それなのに、一人前に娘を育てましたって顔して。 笑わせるじゃない。 そういうお母さんが嫌なのよ」


 孝子は二の句が告げなかった。

 娘が家出したことが分かった時、見開かれた孝子の目に、大粒の露が膨れあがり、頬を伝い始めた。瞬きもしないその目から涙は次つぎに流れ落ちた。


 * * *

 

 孝子はその日、いつもと変わらない日常を過ごしていた。娘が出ていってから何年経つだろうか。その間、一度たりとも娘のことを考えなかったことはない。

 日も暮れ、布団を敷いていると、外で人の気配がした。そうっと入り口付近の様子を伺うと、何やら人影が蠢いている。

 孝子は包丁を握りしめた。こういう時、躊躇してはいけない。一瞬の隙が命取りになることを孝子は知っている。

 人影が家の敷居を跨いだところで、孝子は飛び出した。

 突進して相手の足にしがみつく。人影は無様にも、声も上げずにどさりと倒れた。感触としては随分細い身体だが、確実に相手は男だ。暴れて孝子を突き飛ばそうとするので、人影に馬乗りになり押さえつけ、包丁を振り翳す――


「ちょ待って、おねえさんってば!」


 その声に殺気を全く感じなかったので、孝子は動きを止めた。無論、包丁の切っ先は相手に向けたままで。


「誰です?」


 孝子は短く問いかけた。


「この女が道で倒れていたからどうしたらいいかわかんなかったんですけど建物を見つけたのでここまで運んできただけですただそれだけですはい」


 と、男は早口で言った。

 孝子はそろりそろりと男から離れ、灯りを向けた。男は尻餅をついており、その後ろにぐったりと女が倒れていた。


「おねえさんは、この家の人?」


 男は愛想笑いをして、猫撫で声で聞く。


「そうですけど」


 急に男は立ち上がった。

 孝子は咄嗟に身構え、包丁を男に向ける。おっと危ないと、男は全くそう思ってはいないように言って、両手を挙げて降参ポーズをとった。


「長谷川勇介と申します。 浮浪人なんです」

「その女は誰なんです?」


 孝子は、勇介の後ろに倒れたままの女に視線を移した。気絶しているのだろうか、ぴくりとも動かない。身体はげっそりと窶れ、衣服もぼろぼろだ。

 孝子ははっとした。もしかして、勇介がこの女を薬漬けにして強姦を――

 確かに、笹身山には堅気の人間はほとんど来ない。犯罪を隠蔽するならこれほど適した場所はない。

 孝子はさらにはっとした。そうか、勇介はここをアジトにして、女の臓器売買を企んでいるのかもしれない。それならすべての疑問が解ける。辻馬が合う。


「おねえさんの想像力には感嘆しますが、少々話が飛躍しすぎやしませんか」

「じゃあ他にどんな理由があるっていうんですか?」

「だから、この女が道に倒れてて……」

「そんな馬鹿げた話が通用すると思ってるんですか!」


 孝子は再び包丁を振り上げた。


「思ってない、思ってません! だけど、そうとしか言いようがないんですよこっちも」


 孝子が動きを止めたのを見ると、勇介はみるみる弛緩したようになって笑みを浮かべた。


「まあ、薬漬けにされているにしても、この女をどうにかしないといけないのは変わらないじゃないですか」


 孝子はしばらく黙った。


「少し離れてください。 様子を確認しますから」


 そう言うと、勇介は大人しく横に退く。

 孝子が睨むと、勇介は首をすくめて言った。


「へいへい、手の届かないところに行けばいいんでしょ」


 ざっと十メートルは離れただろうか。この距離なら勇介が急に動き出しても反応できる。

 孝子は身をかがめ、慎重に女に近づいた。

 かろうじて息はしている。微熱があるようだ。皮膚が紅潮しているが、汗は出ていない。舌や唇が乾燥してひび割れている。


「脱水症状ではないでしょうか」

「はい?」

「どうやら早急な措置が……」

「なんて?」

「嘔吐や下痢などは……」

「よく聞こえないんですけどー」

「もういいからこっち来てください!」


 こちらに向かってくる勇介の笑顔が気に障る。こいつ、完全に面白がってるな。


「この方は私が預かります。 どうやら治療が必要のようですから」


 孝子は勇介を見上げた。


「……あなたはどうするんですか」

「特に決めてないけど、それはいつものことだから。 好き勝手に放浪しますよ」


 それじゃあその女をよろしくお願いしますと、勇介はさっさと去ろうとする。


「ちょ、ちょっと待ってください」


 孝子は慌てて引き止めた。


「あなた、ここがどこだか分かっているんですか」

「笹身山ですよ」

「食料もなにも持ってないじゃないですか」

「持ってませんねえ」

「舐めてるんですか」


 すると、何故か勇介ははにかんだ。


「どこも舐めてませんけど」

「何も持ってないのに、放浪もクソもないです」

「急に言葉が野蛮」

「そんなカトンボみたいな身体じゃ、麓に降りることも出来ませんよ」

「その例えは結構ショック」

「あなたも泊まっていってください」


 ぽかんと間の抜けたひとときが過ぎて――


「……は?」


 勇介は目を剝いている。

 孝子は慌てて言った。


「べ、別にあなたのためとかそういうことじゃないですからね、あなたがちょっと可哀そうとか悪い人じゃなさそうとかそういうことじゃないですからね、この女が目覚めてそのまま送り出したら、また脱水症状起こしちゃうかもしれないでしょ、もしかしたら餓死してしまう可能性だってあるでしょ、私も私の都合がありますから、麓まで付き合うわけにはいかないでしょ」


 勇介は失礼なほどまじまじと孝子の顔を眺めた。


「優しいんですね」


 若い頃ならいざ知らず、見知らぬ男に言われて嬉しい台詞ではない。


「助けてくれるって言うなら断る理由はありません」


 勇介は愉快そうに笑うと、懐から何かを取り出した。


「武器は預けておきます」


 短剣だった。

 だがそれよりも、孝子は思わず勇介の手を凝視してしまった。

 勇介の手は、男にしてはかなり小さかった。そして、その手はひどく傷ついていた。

 これは、戦う者の手だ。正義のために戦い、誰かを守ろうとした者の手だ。その結果、たくさん傷ついた者の手だ。この手を持つ人に悪い人は――いない。


「あの……何か?」


 気づいたら、勇介が訝しげに孝子を見ていた。


「いえ、何でもありません」


 孝子は短剣を受け取った。

孝子の娘に関する物語も、今後執筆する予定です。

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