フェリオ・ウルフガード
ローラさんはドレスや髪飾りなどの手配をすると言って、屋敷に戻っていった。
私はしばらく一人で本を読むつもりなので、私のもとから離れる時にローラさんはとても気にしていたけれど、大丈夫だと伝えた。
一人になった私は、ぱらりと頁をめくる。
サリヴェ王国は、ルーフェンシュタイン王国に隣接している国である。
豊かな広い大地を持つ草原の王国で、季節ごとに棲家を移動しながら動物を連れて暮らしている遊牧民の方々が、その国民の大半を占めている。
屈強な騎馬兵を有している国だ。
豊かな国だけれど、塩が不足しているために、多額の金を使用して貿易にて塩を手に入れている。
そのため、ルーフェンシュタインの塩山を欲しがっている。
度重なる侵攻の理由である。
とはいえ、和平を結んでいた時期もある。全く国交がないというわけではないのだ。
和平交渉をするためには互いの言語を知る必要がある。
辺境伯家にサリヴェ王国の本が多くあるのは、そのためだろう。
「……草原の英雄と、姫の話」
ぱらぱらと頁をめくりながら、読み進めていく。
風が気持ちよい日だ。本の中では黒い馬に乗った逞しい体つきの将軍が、国を支配しようとする反逆者の刃から身を挺して可憐な姫君を守っている。
二人の間に恋心は生まれたが、姫と騎士は結ばれることはない。
サリヴェ王国では身分制度は絶対的なもので、騎士は姫に声をかけるだけで厳罰に処される。
どれほどの英雄であろうとも、王家の血筋を庶民のそれと交わらせるわけにはいかないのだ。
姫は血族の者との婚姻が決まっている。
姫が嫁ぐ日の夜、騎士は姫の元に忍び込み、二人は思いを通じ合わせるのだけれど──。
「……まぁ、ひどい」
これは悲恋の話だ。結局、騎士は捕縛されてしまい、処刑をされる。
姫はそれを知り、湖に身を投げる。
二人は来世で結ばれようと約束をしている。だから、命を失ったとしてもそこには悲しみはない。
来世は希望に満ちているのだから。
はらりと、涙が頬を流れ落ちた。
とても悲しい話だった。けれど、綺麗な話でもある。
姫も騎士も誰のことも恨んでいない。ただお互いへの愛情に満ちている。
そして、来世では必ず結ばれるのだと信じているのだ。
「大丈夫?」
「……えっ」
物語に浸っていたら、不意に話しかけられて、私は顔をあげた。
いつの間にか私のそばに、少年がいる。
金の髪に青い瞳の、綺麗な顔をした男の子だ。年齢は、十歳前後だろうか。
確か、ディアス様には年齢の離れた弟がいると言っていた。
少年は私にハンカチを差し出してくれる。
私はありがたくそれを受け取って、涙をふいた。
「ありがとうございます。あなたは……ディアス様の弟君ですか?」
「うん。フェリオ。フェリオ・ウルフガード。あなたは、リジェット?」
「ええ。はじめまして」
「はじめまして。兄上のお嫁さんだよね?」
「はい。そのような立場になる予定です」
「ふふ、変わった言いかた。でも、大丈夫? 泣いていた。兄上が怖いの?」
「え……」
フェリオ君は私の正面の椅子に座った。
まだ背が小さいので、足が浮いている。ディアス様は艶々の真っ直ぐな髪をしていたけれど、フェリオ君の金の髪は私と同じ巻き毛だった。
まだ手付かずだった焼き菓子を手にして、ぱくりと食べる。
「リジェット、食べないの? クッキー、美味しいよ」
「え、ええ、いただきますね。うん。本当に、美味しいです」
手をつけないのも失礼かと、私はクッキーを一つ摘んで口に入れた。
サクサクして、ほろりと口の中でとろけていくクッキーは、ミルクとバターの味がした。
甘すぎず、後味がさっぱりしている。
「お菓子作りが得意な人が作ったからね」
「まぁ、そうなのですね。昨日のチェリーパイも美味しかったです」
「よかった。ね、リジェット。兄上がひどいことを言ったの?」
「そういうわけではないのですよ。今、本を読んでいて。悲しい話だったので、つい、泣いてしまいました」
「そうなの? それだけ?」
「はい」
フェリオ君は安心したように大きく息を吐き出すと、にっこり微笑んだ。
「よかった! 兄上は、リジェットを僕に紹介してくれないし、あまり近づいてはいけないっていうから。てっきり、喧嘩をしたのかなと思っていたんだよ」
「そんなことはありません。でも、近づいてはいけないのですか、私に?」
「そう。余計な気をつかわせるからって。まだ来たばかりで、落ち着かないだろうから。ゆっくり休ませた方がいいって言ってたんだ。でも、それっておかしいなって思って。僕たちは家族になるのに、挨拶もしないなんて」
不満げに唇を尖らせて、フェリオ君は続ける。
「それで、リジェットに会いに来たら泣いているから、てっきり兄上がリジェットに冷たくしたんじゃないかなって思ったんだよ」
「とてもよくしていただいていますよ」
「今日は会ってもいないし、話もしていないのに?」
「ディアス様はお忙しいでしょうから」
「婚礼の準備があるのに、忙しくなんてしていないよ。国境の守りは国境警備隊に任せているし、何かあったら連絡が来るようになっているけれどね。兄上は強いから、防衛戦のためによく呼ばれるけれど、国境には十分な軍が駐屯しているから、少し留守にしても大丈夫。それに、結婚したらしばらくは二人で過ごすものでしょう?」
二人では過ごさないのではないのかしら。
ディアス様には恋人がいるのだもの。
でも、そんなことをフェリオ君には言えない。
「フェリオ君は、詳しいですね」
「フェリオ君」
「はい。フェリオ様と呼ぶべきでしたか」
「フェリオ君でいいよ。嬉しい」
「私、ディアス様とは喧嘩をしていませんよ。自由にしていいと言われましたので、自由にしています。だから本を読んでいました」
フェリオ君が身を乗り出して、私の前に置かれた本を覗き込んだ。
「そうなんだ。これ、サリヴェの文字? 読めるの?」
「はい。読むことはできますよ」
「わぁ、すごいね。僕にも教えてくれる? 兄上は父上に教わったみたいだけれど、父上も母上も僕に言葉を教える前になくなってしまったから」
「そうなのですね……」
「うん。五歳の時かな。先に病気で母が亡くなって。次に父が。父は、国境での戦いの最中に、矢傷を受けてね。よくない傷だったみたい。それからは兄上と二人だったよ。叔父上と従兄妹たちはいるけれど、たまにしか会わないし」
私が母を亡くしたのは三歳の時だ。その時の記憶は、ほとんどない。
けれど、フェリオ君の年齢なら、まだ覚えているだろう。
でも、気丈にもフェリオ君はなんでもないように振る舞ってくれている。
「それは、お辛かったですね」
「そうでもないよ。五歳のころのことなんてそんなに覚えてない。兄上もいるし」
「ディアス様は素敵なお兄様なのですね」
「うん。それで、リジェットは僕に、サリヴェ語を教えてくれる?」
「もちろんです」
私は頷いた。断る理由もないし、こうして話しかけてくれるのはとても嬉しいことだ。
「あぁ、でも、この本は少し大人びた内容でしたから、他のお話にしましょう」
「僕はもう大人だよ?」
「ふふ、そうですね。フェリオ君はディアス様の弟君ですから、きっととても逞しくなりますね」
「そう思う? ありがとう、リジェット」
書庫で本を探しておくと、フェリオ君と約束をした。
フェリオ君は大人しく頷いてくれた。
流石に、私の読んでいた話を教材に使うのはよくないものね。
綺麗な話ではあったけれど、少々情熱的なシーンもあったので──私も一緒に読むのは流石に恥ずかしい。
「リジェット、兄上は忙しくても僕は暇だから。いつでも話しかけてね」
「ありがとうございます、フェリオ君」
「フェリオ様、暇ということはないでしょう? 家庭教師がフェリオ様を探し回っていましたよ」
用事を済ませたのだろう、ローラさんが戻ってきて、困ったように言う。
フェリオ君は「少し休憩のつもりだったんだけど、まずい」と言いながら、慌ててお城の中に戻っていった。
お読みくださりありがとうございました!
評価、ブクマ、などしていただけると、とても励みになります、よろしくお願いします。