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フェリオの決意



 ◆


 リジェットが――攫われてしまった。

 息が、苦しい。口を開いて空気を肺に取り込もうとしているのに、まるで上手くいかない。

 ぜーぜーと、喉の奥で嫌な音が鳴る。

 背筋を冷や汗が落ちて、体は冷たいのに手のひらや顔ばかりが嫌に熱い。


 これは、今にはじまったことじゃない。

 僕は薄暗い牢獄にうずくまるようにしながら、自分の胸をおさえた。


 僕の母は、僕を産んでからしばらくして亡くなった。

 あまり記憶はないけれど――父も母も僕の体が弱いことをとても気に病んでいたらしい。


 ――医者に無理だと言われていたのに、強引に生んだから。

 そのせいで、僕の体は虚弱になってしまった。心臓に病気があるのだと、後悔していたそうだ。


 いや、実際にはそこに後悔があったかどうかは分からない。

 僕が勝手にそう思っているだけだ。


 ウルフガードの血筋なのに、体が弱いなんて。

 ――そんな風に失望の目を僕に向ける者は、家にはいなかった。


 兄上はいつでも優しく、ローラやそのほかの者たちも僕を馬鹿にしたりはしない。

 僕は昔から、少し走ったり、馬に乗るだけで呼吸を乱し、ひどいときには数日寝込むことあった。

 迷惑ばかりかけている。戦えない者は、辺境には必要ない。


 役立たずだと、自責の念にかられる日も多かった。

 そんなことを口にしたら、兄上はもちろん否定するだろう。ローラたちにも心配をかけてしまう。


 だから、できるだけ――なんでもないように振る舞っていた。

 僕はとても、恵まれている。


 リジェットが来てからはよけいにそう思うようになった。

 父上が亡くなってから、辺境伯として忙しい日々を過ごしていた兄上が、妻を娶るのだという。

 家族が増えるのは喜ばしいことだったし、切り立った崖の上にずっと一人で立っているような兄上を支えてくれる人ができるのは、嬉しかった。


 リジェットは穏やかで聡明で優しい人だ。だから、兄上ときっとうまくいく。

 僕はたぶん、長く生きられないだろうから――兄上の家族として、その傍にいてあげてほしい。

 リジェットは、新しい母のようで、僕もすぐに彼女が好きになった。


 それなのに。昔から傲慢だったアリエスは、リジェットを傷つけた。

 兄上の妻になりたいと、そのような振る舞いをしていたくせに、セルヴァの兵に怯えて何も言えなかった。

 リジェットは、すぐに自分が兄上の妻だといい、僕の安全についてばかりを、気にしてくれた。

 僕を守ろうとしてくれる。

 剣をもって戦うことができないのに、とても強い人だ。


 ――自分が情けない。

 ディアス兄上の弟なのに。ウルフガードの血が流れているのに。

 リジェットに守られるなんて。本当は、僕がリジェットを守らなくてはいけないのに。


「ナユタ様のご命令だ。お前を、賓客として扱うようにと。こちらに来い」


 冷たい石の床にうずくまり、脈打つ心臓と乱れる呼吸を落ち着かせるためにじっとしていた。

 兵士に呼ばれて顔をあげる。

 リジェットがナユタに連れて行かれてから、しばらく経っている。

 おそらく、リジェットが交渉してくれたのだろう。


 僕の身を、守るために。

 僕の体の欠陥については、リジェットには伝えていない。

 余計な心配をかけたくなかったし、できることなら知られたくなかった。

 病気だという扱いを、されたくなかった。


 けれど、リジェットは僕の体の不調にすぐに気づいたようだった。

 だから、今も。


 僕の身を守るために、何を差し出したのだろう。

 それがリジェット自身だとしたら。あまりにも、残酷だ。


 リジェットと兄上の幸福を奪うなんて。父上の命を奪い、多くの兵士たちの命を奪い――かつては、兄上を攫った。

 卑怯で卑劣で、あぁ、でも。


(冷静になれと、兄上なら言う。憎しみで剣を握ってはいけない。上に立つ者の心が憎しみに曇れば、いらない血が大地を染めるばかりだと)


 僕は、英雄ディアスの弟だ。

 兄上は十五で、サリヴェの砦を制圧した。

 僕にも同じ血が流れている。何もできないと嘆いている場合じゃない。

 リジェットを救わなくてはいけない。

 あの優しい人の体や心が、傷つけられる前に。


「どうした、こちらに来い。お前の身を丁寧に扱ってやると言っているのだ。ナユタ様の寛大さに感謝するといい」

「まぁ、ナユタ様もあの女に絆されただけかもしれんがな」

「美しかったからな。ディアスの妻か。人の物を奪うほど、楽しいことはない」

「ディアスの絶望した顔を見ることができるかもしれないな。それは、愉快だ」


 牢を開いた兵士たちが、いやらしい笑みを浮かべている。

 数は、四人。

 僕が子供だと、侮っているのだろう。


「ほら、こちらだ。具合が悪そうだな、歩けるか?」


 牢から這いずるように外に出て、僕は口をおさえた。

 今にも吐きそうなふりをする。体調が落ち着いている日よりも、調子の悪い日の多い僕にとっては、具合の悪いふりをするのは簡単だった。


 手を差し伸べられて、僕は顔をあげる。


「何か、病気があるんじゃないか?」

「どうする、うつったら」

「おい、何の病気だ。吐きそうなのか?」


 僕に手を差し伸べた兵士以外の三人は、怯えたように後退った。

 

「――サリヴェの方々は、知らないのでしょうが、今、王国ではある病が流行っていまして……嘔吐からはじまり発熱をして、血を吐いて死ぬ病です。元々僕は体が弱くて……どうやら、その上、流行病にかかっているようです」

「なんだって……!」


 三人の兵士たちは、怯えた顔をして僕から離れた。部屋の外にまで逃げていく彼らを見て、僕に手を差し伸べている兵士はどうしたらいいか考えあぐねているようだった。


「歩けるか。お前は、貴賓室に閉じ込めさせてもらう」


 差し伸べていた手を引っ込めて、僕から距離を取るためだろう。

 僕に背中を向けた兵士の腰の剣を僕は素早く奪った。

 二対の剣の内、室内用の短いものを。

 長い剣は重たすぎて、僕には降ることができない。けれど、短いものならなんとか使える。

 

 体を鍛えるために、兄上に止められても鍛錬は続けてきた。

 カーライルには筋がいいと褒められた。成長して病が落ち着けば、よい剣士になるだろうと。


 大丈夫だ。できる。

 驚いた顔をしたあとに、僕につかみかかってこようとする兵士に向かい、僕は剣を突き出した。

 打ち合いになれば不利になる。体力も、ない。

 硬い肋骨に守られた心臓に、さくりと剣は突き刺さる。

 兵士の体がずるりと倒れる。残りの三人の兵士たちが、異常に気づいて剣を抜こうとしている。

 

 心臓が持つように祈りながら、僕は兵士たちに向って駆けた。




 

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