ディアス・ウルフガード 2
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この――心根の穏やかで優しい人を、傷つけたのだ。
その深い後悔が、心を抉り続けている。
元来、あまり悩む質ではない。他者のことで悩んだことなど、数えるほどもないのではないか。
一度目は、母上のことだ。
フェリオを身籠った時、母上の年齢はすでに出産に耐えうる歳を超えていた。
思いがけない妊娠で、ウルフガードの城は騒然となった。
医師は危険だと言い、子を堕ろす薬を飲めと言ったが、母は産むといってきかなかった。
無事にフェリオは生まれたが、母上は体調を崩し、その後亡くなられた。
そのせいでなのか、それとも元々そうだったのかは分からないが、フェリオは心臓が悪い。
いつもは平気な顔をして過ごしているが、武芸の訓練などをしようとすると――少し、体を激しく動かしただけで、息を切らし真っ青になってしまう。
辺境伯家を継ぐには向かない。命を繋ぐためには、静かに暮らす必要がある。
そして、リジェットだ。
俺の妻になることを――幸運だと言ってくれている、珍しい貴族女性である。
森で共に過ごし、話をしている間に寝入ってしまった。
その穏やかな寝顔を見て、体を抱きあげると、その柔らかさや小ささに胸が震えた。
リジェットは、欲がない。
それは彼女の生きてきた環境に原因があるのか、それとも元々そういう気質なのかはわからない。
今あるもので、満ち足りる。
それがどんな環境でも、どんな境遇でも。
――満ち足りてしまう。
だから、俺が彼女に投げた残酷な言葉では傷がつかずに、いや、それは彼女の心に小さな傷をつけたかもしれないが、それは彼女にとってはささくれ程度のものだった。
だからすぐに俺を許し、笑顔を向けてくれる。
それが、無性に、痛かった。
心臓に釘が突き刺さるようにじくじくと痛む。一体今までどうやって生きてきたのだろう。
何があったのだろう。
――彼女を知りたい。
大切にしたい。
リジェットと共に街を歩き、慰霊祭で子供たちと踊る彼女を見た時に、体が熱を持つようだった。
それは戦場での猛りと似ている。
指先や、髪の先まで、熱を帯びるような――火照りである。
けして綺麗ではない欲望だ。
リジェットの、小さな、柔らかそうな、しっとり濡れる桃色の唇に触れたい。
唇からのぞく小さな舌を、食べたい。それはどんな柔らかさで、どんな味がするのか――それを考えるだけでひどく喉が渇いた。
きめ細やかな肌に手を這わせて、誰にも触れられたことのない場所に触れたい。
全部、俺のものにしてしまいたい。
女性に、はっきりとした欲望を感じたのははじめてだった。
元々、あまりそういった欲がなかった。
剣や馬や狩りは好きだが、それ以外のことには関心が薄かった。
もしかしたらこれが、恋なのだろうか。
いい年をしてそんな風に思う自分がなんだか気恥ずかしく、慣れない。
傷つけた罪悪感からリジェットを大切にしなくてはと考えていたが、それが俺の中で変化していっていることに気づいた。
気づいてしまえば――感情は膨らむばかりだ。
「――サリヴェめ。まるで俺の邪魔をしたいと言わんばかりだな」
「まぁ、デートのあとに国境に呼び寄せるなんて、無粋ですね」
僅かばかりの酒を口にして、酔って眠ってしまったリジェットは、朝日が昇っても静かな微睡みの中にいた。
頬を撫でて髪撫でて「行ってくる」と伝えると、僅かに身じろぎ「ディアス様」と口にして、ふにゃりと笑う。
まるで、赤子のように安心しきった笑顔に声をあげて笑いたくなるのを堪えた。
できれば強く抱きしめて、口付けてみたいが、それはまだだと我慢をした。
後ろ髪をひかれる思いで、カーライルを連れて国境の砦に出立した。
馬を駆けさせれば、国境の砦までは数刻程度。さほど遠い場所でもない。
『サリヴェの密偵を捕まえた。捕虜にしたものの、口を割らない。ディアス様に判断を仰ぎたい』と、砦に駐屯中の国境警備隊の兵から連絡が来た。
何故よりもよって、婚礼を控えた今なのか。それも、昨日はとてもいい日だったのに。
などと言っても仕方ない。
できれば、早々に問題を片付けてリジェットの元に戻りたい。
馬を走らせながらそんなことを考えて、そういえば誰かの元に帰らなくてはと考えるのははじめてだなと気づいた。
「ディアス様。ユーグリド家について調べましたよ。ユーグリド商会から買い付けをしているアスベルの部下が、報告書を寄越しました」
「ずいぶん早いな」
「元々、アスベルはリジェット様がどんな女性かを調べるつもりでいたようですね。あれも、真面目な男ですから。ディアス様に請われるまではなにも言わないつもりだったようですが」
「俺よりも余程優秀な部下を持つことができて、俺は運がいいな」
「そうでしょう」
砦までの道すがら、カーライルが話しかけてくる。
得意気に頷くカーライルの様子に、俺は僅かに笑みを浮かべた。
アスベルは俺よりもよほど頭が回る。
フェリオはアスベルやグレンシードのように生きることができればいいのだが――本人は、俺のように戦うことができる男になりたいのだという。
「ユーグリド伯爵の元に嫁いだジュリエット・ネイト侯爵令嬢は、現ネイト侯爵の妹君です。三人兄妹で、兄は侯爵を継ぎ、姉は他家に嫁に行き、ジュリエットはユーグリド伯爵の元に」
「ネイト侯爵?」
「はい。王国の東の土地を領地としている家ですね。リジェット様が三歳の時にジュリエット様は亡くなっています。元々、心臓が悪く体の弱い方だったようで」
「そうか。リジェットの母君も……」
フェリオと同じ。リジェットはどうだろうか。健康に見えるが、無理をしていないのだろうか。
「ユーグリド侯爵は、ジュリエット様のご存命中に、ジュリエット様の侍女だったリンダと子を作っていますね。これが、サフィア。リジェット様の妹ですが、年齢は同じ、十八歳です。そして、二つ下にエメラダ。十六歳ですね。リンダは侯爵家にいたときからジュリエット様の侍女で、ユーグリド家にまでついてきたようです」
「それは、残酷なことだな」
「はい。私だったらそんなことはしませんね。酷い」
カーライルは不愉快そうに眉を寄せる。
「王都の晩餐会や舞踏会に顔を出していたのは、リンダとサフィア、エメラダだったようです。陛下は、ユーグリド伯爵の娘は、サフィアかリンダ、どちらかだと思っていたのではないでしょうか。リジェット様は、恐らく一度も社交界には顔を出していません」
「そこまで、分かるのか?」
「はい。リジェット様はいつも、着古した服を着ていたようでして。ドレスを着ているところを見たことがないと――使用人たちは言っているようですね。お可哀想だと。けれど、リジェット様に構うとリンダが怒るのだそうです。リジェット様はサフィアよりも良縁に恵まれてはならないのだというのが、リンダの口癖だったようですね」
元々、主だったジュリエットの娘だろうに――。
不快感に、眉を寄せる。
女は、分からない。
リンダという女は、主が大切だからユーグリド家にまでついてきたのではないのだろうか。
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