恋人の有無
ディアス様は僅かに、私に身を寄せた。
近くで見る焚き火の炎に照らされた瞳は、私の好きな朝の海を連想させるものだ。
「──リジェット、ローラから君のことを聞いた」
「私のことを?」
「あぁ。ドレスも宝石もいらないと言っていると聞いて……やはり、駄目かと考えていた。狩りと戦しかできないような男との結婚を、承諾してくれるような女性はいない。君は、俺に買われた。さぞ、俺を嫌悪しているだろうと、な」
「まさか」
ローラさんと同じ誤解を、ディアス様にもさせていたということだろうか。
申し訳なくなると同時に、私は少し慌てた。
恩人に誤解をさせてしまうなんて、私はよくないことをしてしまった。
私の態度が招いてしまった結果だもの。あらためなくてはいけない。
「この婚姻は契約で、君は好きにしていい。好きな男がいれば呼んでいいと言ったのは俺だ。だから、君の態度は当然で──」
「ディアス様。私、嫌悪していません。逃げたいとも思っていません。ディアス様は恩人です。ですから、できる限りご迷惑をかけないようにします。……ここに、いさせてください。あなたの子を生むのが、私の役目なのでしょう?」
「──俺は、君にひどいことを言ったな」
ディアス様はどういうわけか、頭を抱えた。
私はひどいことなんて言われていない。自分の立場は理解しているつもりだ。
それで別に構わない。どんな場所でも、どんな境遇でも、私が変わるわけじゃない。
「リジェット。ローラが、今日の昼間に、血相を変えて駆け込んできてな。君が、庭園で本を読んでいる時だ」
「ローラさんは、私のドレスなどを手配してくださると言っていました」
「あぁ。昨日は、君が怒っているかもしれないと報告してきた。そして、今日は君が、ユーグリド家で何か辛い目にあっていたかもしれないと言ってきてな。昨日の報告は間違いだった、すまないと」
「辛い目には、あっていませんけれど……謝ることは何もないのに。私が誤解させてしまったのがいけなかったのですから」
言葉というのは、難しい。
ローラさんにいらない心労をかけてしまった。
ディアス様は深々と息をついて、首を振った。
「君は、辛いと認識さえしていないとも言っていた」
なんのことだろう。一人でいたことかしら。
とくに、大変なことはなかったのだけれど。
「俺にはどちらが本当の君かを判断できなかった。話してもいないのだから、当然だ。だから今──君を試すようなことをした。逃げたいだろう、帰りたいだろう、俺を恐れているだろうと。……試したのだな。すまない」
「謝らないでください。ディアス様がお望みでしたら、なんでも答えます。私、秘密はないのです。何も……今までは、なかったのです」
「今までは?」
「はい。……今は、あります。ディアス様の恋人のことは、誰にも言いません。ですから、安心していてください」
「…………恋人?」
口にしてはいけなかったのだろうか。
ディアス様は真顔で、一瞬ぴたりと動きを止めた。
私の顔に自分の顔を近づける。私は真正面からまっすぐな視線を受け止めて、軽く眉を寄せた。
「言わないほうがよかったですね。ディアス様の思い人のことを、私の口から聞きたくはないですものね」
「俺に恋人などいないが」
「あぁ、でしたら、片思いということでしょう? 大丈夫です、私、応援しています」
「そんな相手もいない。言っただろう、狩りと戦しかできないような男だと。女性の扱いは慣れない。城には女性たちが働いているが、皆、家族のようなものだしな」
「ローラさんは……」
「ローラには恋人がいるぞ。剣など持ったことがない絵描きだ。普段は街のアトリエにこもっている」
「え……っ」
「ん……?」
私は色んなことが急に恥ずかしくなってしまって、椅子から立ちあがった。
色々と、勝手に想像を膨らませていたけれど。
全部、間違っていたなんて。
そしてそれを、ディアス様に伝えてしまうなんて──恥ずかしい。
「わ、私、てっきり……ディアス様には恋人がいるから、私にも自由をくださるのだと、好きな人を連れてきてもいいなんておっしゃるのだと思って……」
「それは、君を金で買ってしまったから。それぐらいはしなければいけないと、考えていた。蛮族のような男に嫌々嫁ぐのだ。もし故郷に好きな男いたら不幸だろう。俺よりももっと、君に相応しい男がいるだろうと」
「そんな人はいません。作るつもりもありません。ディアス様の妻になるのに、別の方のことなんて考えられるわけがありません……」
つまり、私もディアス様も、いもしないお互いの恋人についてを考えて、遠慮しあっていたということなのだろうか。
私は一歩後退った。
今すぐこの場から逃げ出したい。
気恥ずかしさでいっぱいになる。私は、眠れなくなるほどに、何を悩んでいたのだろう。
箱の中身は空っぽなのに、それを知らずに、中に毒蜘蛛が入っているかもしれないと考えて、箱を厳重に紐で縛ることと同じ。
縛った箱を部屋の奥に置いて、見ないふりをしていたら、私はずっと勘違いしたままだった。
あぁでも、恥ずかしい。
ただ一言、尋ねるだけでよかったのに。
「リジェット」
「わ、私、部屋に戻りますね」
「待て。悪かった、リジェット。すまない。俺が、余計なことを言ったせいだ。傷つけただろうか。怒らせて、しまったか」
「違うのです。私……恥ずかしくて。ディアス様と私は、同じことを悩んでいたのだなと思うと、なんだか……恥ずかしくて、隠れたい気持ちです」
「……リジェット」
ディアス様の大きな手が、私の腕を掴んだ。
しょんぼりと耳をたれた大きな犬のようなディアス様が、許しを乞うように、私の前に膝をついた。
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