序章
シロツメクサのふわふわもこもことした綿に似た花が広がる草原で、四つ葉のクローバーを探していた。
押し花にして、本の栞にしようと思ったのだ。
ユーグリド伯爵家の敷地内のよく手入れされた林を抜けた先には、手付かずの野原がまだ残っている。
湿った土の匂いや、肌を撫でる風や、お日様の暖かさが感じられるこんな日には、暗い図書室にこもって本を読むよりは、野原を散策する方が楽しい。
てんとう虫や、小鳥や、リスの姿なども見ることができる。
古びた大判のストールを広げてその上に座りお弁当を食べていると、パンくずを啄みに小鳥たちが寄ってきてくれることもある。
お気に入りの本を図書室から持ち出して、日差しの下で読んだり、うとうと眠ったりするような一日が、私は何よりも好きだった。
「あった!」
探しはじめてから数十分。私はプチンと、三つ葉の中に隠れていた四葉のクローバーを摘んだ。
四つに分かれた葉をもつ可愛らしい葉を眺めて微笑む。
「ふふ、懐かしい」
昔、お母様と二人で四葉のクローバーを探した記憶がある。
四葉のクローバーは幸運を運んでくれるのだと、お母様はおっしゃっていた。
──結局、お母様はご病気で亡くなってしまったのだけれど。
「リジェット様!」
慌ただしく私の名前を呼ぶ声がして、野原にしゃがみ込んでいた私は立ち上がると、スカートの裾を直した。
あまり乱れた服装をしていると、ユーグリド伯爵家の長女なのだからちゃんとするようにと、怒られてしまうからだ。
私の元にやって来たのは、怒っているような悲しんでいるような、それから怖がっているような、ともかく穏やかではない表情を浮かべた侍女だった。
「旦那様がお呼びです、すぐにお屋敷に戻られますよう!」
お父様が私になんの用かしら。
不思議に思いながら、私は大判のストールを折りたたみ、持ってきた本の表紙に四葉のクローバーを挟んだ。
お弁当は先ほど食べてしまったから、空になったバスケットの中に本とストールを入れると、急いでお屋敷に戻った。
ユーグリド伯爵家は、代々他国との貿易で栄えている家である。
海辺の街ソファミアを所領として持ち、そこに何隻もの貿易船を抱えている。
街の高台にあるお屋敷は立派なもので、他国から買い付けた値のある美術品が至る所に飾られている。
野原から戻った私の元に、伯爵家当主であるお父様が血相を変えたようにして走ってくる。
私は今は亡きお母様に似て、ふわふわとした金の髪に青い瞳をしているけれど、お父様は黒髪をいつもかっちりとしたオールバックにしている。
服も髪も、乱れているところなど見たことのないような方だけれど、今は額に一本前髪が落ちていた。
お父様の後ろには、継母のリンダさんと、妹のサフィアさんと、エメラダさんがいる。
私のお母様は私が三歳の時に亡くなって、リンダさんが来たのはそのすぐ後のこと。
私に母親がいないことをお父様は不憫に思ってくれて、お母様の侍女だったリンダさんと再婚をした。
その時リンダさんにはすでにお父様との間に、サフィアさんという子供がいて、お父様と再婚する時にはエメラダさんも生まれていた。
サフィアさんはもうすぐ十八歳になる。私とほとんど年齢が同じだ。
エメラダさんは、二つ年下の十六歳。
お母様の存命中にお父様はリンダさんと子供を作っているのだけれど、どうしてそうなったのか私はよく知らない。
お母様は私を産んでから体調を崩しがちだったから、寂しかったのかもしれない。
リンダさんという方はとても美しい女性で、二人も子供を産んだとは思えないぐらいに若々しい。
身近にそれほど綺麗な女性がいたら、つい──よい関係になってしまうものなのかもしれない。
お母様との記憶は、私が小さすぎたせいではっきり覚えているわけではないけれど、誰かを憎むようなことも恨むようなことも言っていなかったように思う。
だから多分、お父様とリンダさんの関係は、たいして問題ではなかったのだろう、きっと。
なんて──本当はそんなに詳しく考えていたわけでもないのだけれど。
そのころの私は小さすぎて、お母様が亡くなったこともうまく理解できていなかった。
私を置き去りにして変わっていく環境の中で、ただ嵐に流される小船の中でぼんやりと嵐が通り過ぎるのを待っていただけだった。
気づけば新しいお義母様ができていて、気づけば妹が二人いた──というような感じである。
亡くなったお母様は、元々は侯爵家の次女だったらしい。リンダさんはお母様の傍付き侍女として、お母様と一緒にユーグリド家に来たのだそうだ。
今はユーグリド家の奥様であり、私のお義母様である。
富のあるユーグリド家に相応しい姿をいつもしていて、今日も宝石が散りばめられた豪奢なドレスに身を包んでいる。
美しく豊満な女性だから、ドレスがよく似合っている。
王国の最先端のお化粧をして、髪型にも気を配っている。最近は、毛髪を加工して作られているまつ毛を瞼の上に糊付けするのが流行っているらしい。
そうして増毛された惚れ惚れするほどの長いまつ毛は、細いペンなら何本か乗りそうなほどに長い。
サフィアさんもエメラダさんも、リンダさんによく似ている美しい方々である。
リンダさんによく似たブルネットの巻き毛に、幾つもの金飾りをつけている。
一度着たドレスは二度と着ないことを徹底していて、いつも新作のドレスを着ていて華やかな妹たちである。
ちなみに、サフィアさんは宝石が大好きで、エメラダさんは美術品に目がない。
やはり母親が違うからかしら。私はあまり、そういったものに興味がない。
ドレスは重たいし、金飾りも重たい。
好きなものは昔から、紙の香りで満ちている図書室と、お母様と四葉のクローバーを探した野原だった。
「リジェット、話がある」
「はい、お父様」
お父様は私の両肩を力強く掴んだ。
お父様にこうして話しかけられるのは、ずいぶんと久しぶりだった。
いつもお仕事が忙しく、家を不在にしがちだ。街にあるユーグリド商会でお仕事をしたり、貿易船に乗って他国に行ったりしているからだ。
最後に話したのがいつだったかあまり思い出せないぐらいだけれど、あまり気にしていなかった。
「数日前に、嵐があっただろう?」
「はい。海の向こうに暗い雲があるのを見ました。空が光って、落雷もあったようですね」
嵐は海の上で起こっていたようだった。私は窓辺からそれを見ていた。
高台にある伯爵家の私の部屋からは、海が見える。
私は夜の海や、夜空を見るのも好きだった。寝起きが悪くなるので、夜起きているのはいけないのだけれど、気づくと明け方まで窓辺でぼんやり時間を過ごしていることもある。
何も考えずに、ぼんやり生きている──と、サフィアさんやエメラダさんによく言われる。その通りだと思う。
「他国に買付をしていた船が、三艘沈んだ。船の戻りが遅いので見に行ったら、海上に船の破片が浮かんでいたので、まず間違いない」
「まぁ……船員さんたちはご無事でしたか?」
「緊急用のボートで浮かんでいたのを何人か助けた。そんなことよりも」
お父様が苛立っているのを感じて、私は口をきゅっと噤んだ。
大変困ったことなのだけれど、私は真面目なつもりでも、私の言葉はどこか間が抜けているように聞こえるらしい。
話すのも遅いし、動作も素早くない。
間抜けでのろまだと、お義母様たちにはよく言われる。その通りなのだろう。
「難破した船と、積み荷……その損害を全て合わせると、我が家の全財産ではとても足りない額だ。つまり、我が家は破産する」
「まぁ……」
「まぁ、ではないわよ、リジェット姉様!」
「破産とはどういうことかわかっているの? リジェット姉様!」
それは大変困ったことだと理解はしているのだけれど、サフィアさんとエメラダさんに叱られてしまった。
二人とも私よりもずっとしっかりしている。
「ドレスも宝石ももう買えないということなのよ!」
「壺も絵画も花瓶も、全部取られてしまうということなのよ!」
「家も借金のかたに取られてしまうかも」
「使用人も雇えなくなるかも」
「そんな生活耐えられない」
「とても無理だわ。死ぬしかない……!」
泣き出してしまう二人を抱きしめて、リンダお義母様はお父様を睨む。
「サフィアとエメラダが可哀想ですわ……! あなた、さっさとリジェットに話したらどうなのですか!?」
「あ、あぁ……」
リンダお義母様はとてもしっかりしていて、その分少し怒りっぽい。
お父様はリンダお義母様に怒られることが苦手のようで、なんだかいつも少し怯えている。
「リジェット、頼みがある」
「頼みですか?」
「我が家を救うと思って、嫁いで欲しい」
「嫁ぐ……」
「あぁ。ウルフガード辺境伯が、嫁を探しているらしい。誰でもいいと言っているそうだ。あの家はいくつもの鉱山を抱えていて裕福で豊かだが、辺境になど誰も嫁がない。隣国との小競り合いが続き、辺境伯は戦地に遠征に向ってばかりだと聞く。そんな男に娘をさしだす親などまずいない。だから、破格の支度金を出すと言っている」
ウルフガードという名前に、私は狼の姿を思い浮かべた。
噂には聞いたことがある。ディアス・ウルフガード様。
辺境の狼と呼ばれる英雄だ。
敵国の侵略から、幾度も国境を守っている。冷酷で無慈悲で、熊のように大きなそれはそれは恐ろしい方なのだという。
「辺境なんて田舎にサフィアとエメラダを嫁がせるわけにはいかないわ。それに、まるで熊のような化け物という噂よ、下品で野蛮に違いないわ……!」
「お姉様なら大丈夫でしょう?」
「いつものろのろと野山を這いずり回っている、ヤドカリのようなお姉様だもの」
「宝石も美術品も、お姉様はいらないでしょう?」
「お願いお姉様、私たちを助けて!」
口々にお義母様と、妹たちが言う。
私は──頷いた。
「わかりました」
それで家が救えるのなら、別に構わない。
私ももう十八歳。嫁ぎ先を探さなくてはいけない時期なのに、家の中で毎日のんびり過ごしていたのだ。
お父様やお義母様たちに、育てていただいた御恩を返さなくてはいけない。
──ディアス様とはどんな方なのだろう。
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