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「私…上京してきて…こんなに親切にしてもらったこと…初めてかも…」
ユナが呟いた。
「そ…そんな大したことしてないですよ!」
浩太は照れた。
「いや、大したことですよ! 赤の他人の私に、こんな家族のような心遣いをして下さって…。」
「いやいや、本当に大したことないですから…。気にしないで!」
信号が赤に変わろうとしていた。浩太はゆっくりとブレーキを踏んだ。
車を止めると、浩太はユナをチラ見した。ユナの顔色は悪かった。今日も無理してレッスンに来たのだろう。
「先生…体、大丈夫ですか? しばらくゆっくり休んだ方がいいんじゃないかな…。」
「…それは…難しいです。」
ユナは小さく呟いた。そしてゆっくりと話し始めた。
「私…実は…ダンサーを目指していて…芸能界に入りたくて…それで上京したんです。今もまだ夢を諦めきれなくて…。両親はそんな夢みたいなこと叶いっこないって反対しているので援助もしてもらえないし、ダンスのレッスンだけじゃ食べて行けないからレッスンの無い時は出来るだけバイトを入れてるんです…。だから休むわけには…」
―僕が…この子を助けてやりたい…
浩太はユナの話を聞いて、心からそう思った。
「ダメですね! こんなことじゃ! もっと強くならなくちゃ!」
ユナはカラ元気に言った。
その時、ちょうどユナのマンションに着いた。
「ありがとうございました! パパさんのおかげでなんだか元気が出てきました!」
ユナはそう言いながらドアを開けた。
「待って! 重いから部屋まで持って行くよ!」
浩太はそう言うと、後部座席に乗せていたユナの荷物と自分が買ってきたユナへの差入れを持って、ユナの部屋へ運んだ。
「本当に…ありがとうございました。」
ユナは玄関の前で言った。浩太の気持ちが嬉しくて、目を滲ませていた。
浩太はそんな健気なユナを見て、抱きしめたくて堪らないでいた。
「じゃあ…ね。ちゃんと休める時に休むんだよ。」
浩太は必死の想いで自分の心を制止してそう言った。立ち去ろうとすると
「…私…次は…パパさんみたいな人と付き合います。」
ユナが呟いた。
私…次は…パパさんみたいな人と付き合います
ユナの言った言葉は舞い上がっている浩太には自分に都合良くこう変換されて聞こえた。
私…次は…パパさんと付き合います
完全に(みたいな人)という言葉が抜け去ってしまっていた。
―それって…ユナ先生も俺の事が??? 気持ちが…通じたのか…?
浩太は頭が爆発したんじゃないかと思うほど顔が真っ赤になり、心臓はけたたましい音を出して鳴り響いた。
「ただいま~! あれ? 電気ついてない…。パパ~! ママいないみたいだよ~!」
子供たちが浩太に向かって叫んだ。
浩太はゆっくり靴を脱ぐとリビングへ行った。
「どっか行ってんだろ…。おまえたちは先に宿題を済ませなさい。」
「は~い!」
浩太は一人テラスへ出た。空には美しい月が顔を出していた。
ハァ~
溜息ばかり出る。
頭の中がユナだらけで、他の事を何も考えられない。
ずっと動悸がする。
―これじゃ体がもたない…
浩太は自分の中に芽生えた、生まれて初めての激しい感情をどう処理することも出来ず苦しんだ。
「パパ~! ここ分かんない~!」
中から子供たちが呼ぶ声が聞こえた。
浩太はまた溜息をついて部屋の中へ入っていった。
「ただいま~。」
そこへモッコが帰ってきた。
「ママ、おかえり~!」
子供たちは母の帰りを喜んだ。
浩太は何故かカチンときていた。
―俺に子供を預けてこんな時間までどこをほっつき歩いてきたんだ!
今までモッコに対してこんな感情が湧く事は無かった。
安心して家の事を任せられるし、自分の事も大事にしてくれる理想の妻だと思っていた。
―なのに何故…? 俺はこいつの事が嫌になってきている…。
浩太は立ち上がり
「…話がある。」
とモッコに神妙な顔をして言った。
そして浩太はモッコを二階の寝室へ連れて行った。
「…どうしたの? 急に改まった顔して…」
モッコが聞くと、浩太は顔を逸らせた。
―ダメだ…ダメだぞ、浩太! 感情にのまれてはいけない! いつもの冷静なお前はどこへ行った?
心の中でもう一人の自分が叫ぶ。
―自分に正直になれよ! 人生は一度きりなんだぞ! こんなチャンス、おまえにはもう巡ってこない。後で後悔しても遅いぞ!
さらにまた別の自分が問いかける。
「もう、何なのよ?」
モッコは来ていたコートをハンガーにかけながら言った。
浩太の中では相反する感情が戦っていた。そしてついに浩太はそれを言う決心をした。
「…俺たち…離婚しないか?」
モッコは驚いて振り返った。
「…何? 冗談か何か?」
モッコは言うと、浩太は首を振った。
「離婚して欲しい…。」
―言った。…言ってしまった。もう後戻りは出来ない。酷い夫だ…酷い父親だ…。俺はクズだ! だけど…俺はもうユナへの気持ちに抗う事は出来ない!




