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(数時間前)
「パパ~おやすみ~!」
「はい、おやすみ!」
午前中はダンス、午後からは水泳教室で疲れたのだろう、子供たちは8時過ぎには寝てしまった。
何もする事の無くなった浩太はリビングのソファに座ってテレビを付けた。
どのチャンネルもたいして興味を引く番組をやっていなかった。
浩太はテレビを消して、読みかけの小説を読み始めた。
その時、家の固定電話が鳴った。
固定電話にかけてくるのはたいてい営業電話なので、普段は無視する事も多いのだが、暇を持て余していた浩太は受話器を取った。
「…海野さんのお宅ですか? リクちゃんとルイ君のダンス教室で講師をしております高梨と申しますが…」
―ユナ先生!?
「あの…ルイ君がロッカーにケータイを忘れていたみたいで…お電話させていただきました。もっと早くに気付けばよかったのですが、さっき夜のレッスンの子が見つけてくれて…連絡が遅くなってしまってすみません。」
「あっ…いえ…とんでもないです! ありがとうございます!」
浩太は声が裏返った。
「あの…どうしましょう…ケータイだし、早くお返しした方がいいのかと…。ご迷惑でなければ私、今からご自宅まで持って行きましょうか?」
「と、と、とんでもないっ! 僕が取りに行きます!」
浩太はすでにパジャマに着替えていたが、急いで洋服に着替えた。
鏡の前で髪をセットして何故か歯も磨いた。
―リクもルイもぐっすり寝ている。ちょっとケータイを取りに行くだけだ…。なに、すぐ帰るさ…。
ほんの少しの躊躇は目の前に浮かんだユナの顔に吹き飛ばされた。
浩太は鍵を掛け、小走りにユナの元へ向かった。
住宅街を抜け、駅へ通じる商店街には居酒屋やバーのネオンサインがきらめいていた。
しばらく行くと、先日ユナと訪れたバーの入り口が見えてきた。
ちょうどカップルが中に入ろうとしていた。ドアが開いてカウンターの後ろにある酒がたくさん並んだ棚が見えた。
浩太の頭の中に目を閉じて唇を差し出してくるユナの顔がフラッシュバックした。
―いかん、いかん…。
浩太は頭を振った。駅ビルに着くと、まだ人はごった返していた。
きさらぎガーデンヒルズの週末の夜は賑やかだ。
浩太はエレベーターのボタンを押した。
心が高ぶったままユナに会うのは恥ずかしい。
浩太はゆっくりと深く深呼吸を繰り返した。
―心臓…治まれ…
チン
エレベーターが最上階に着き、扉は開いた。
浩太は冷静さを装い、ユナの待つダンス教室へ行った。
「失礼します。」
浩太が扉を開けると、椅子にもたれかかってウツラウツラしていたユナの姿が見えた。
「あ! パパさん! すみません、わざわざ来ていただいて…」
ユナは浩太に気付いて立ち上がった。
「こちらこそすみません。とっくにレッスンが終わっているのに遅くまで待ってもらって…。」
「いいんですよ。これ。」
ユナはバッグからルイのケータイを取り出すと浩太に手渡した。
「名前が書いてあって良かったです。」
ユナは笑顔で言った。
その笑顔に浩太はまたときめいた。
手渡されたケータイの裏には(海野塁)とモッコの字で書かれてあった。
浩太はその文字から目を逸らすようにケータイをポケットの中に突っ込んだ。
「これからお帰りですか?」
浩太は聞いた。
「あ…はい。」
ユナはどこか口ごもった言い方だった。
―もしかして…また一緒にバーに行ってくれたりして…
ユナの戸惑っている様子に浩太は淡い期待を寄せた。
「…帰ります、自分の部屋に。」
ユナの言葉に浩太の淡い期待はいとも簡単に崩れ落ちた。
「お、送って行きますよ! 外も暗いし、独り歩きは危ないから…」
ユナのマンションは二駅先にあった。
「大丈夫ですから」と、遠慮するユナに浩太は無理について行った。
電車はガラ空きだった。二人は並んで座った。
「…ほんとは…今日、友達の家に泊まりに行く予定だったんです。でも、夕方連絡があって、その子…急に体調崩しちゃって…。ほんとは今頃、二人でジャンクフード食べながら女子会してるはずだったんですけどね~。」
浩太は女友達と聞いて安心していた。安心する権利も無いのに…。
「お友達、早く良くなるといいですね。」
「さっきね、夜のレッスンの前に薬とか果物とか簡単に食べられそうな食糧とか、愛情たっぷり込めて差入れしたんです! 多分あの子、私の愛をい~っぱい受けて明日には良くなるんじゃないかなぁ~」
―ユナ先生の喋り方…可愛いなぁ…。
浩太はユナに見とれた。
「そりゃあ一発で治りそうだ! 羨ましいなぁ、お友達…。」
浩太は冗談抜きで羨ましく思った。
「私もそうなんですけど…一人暮らしだし、実家は北海道なので家族は遠くにいるし、こんな時、本当に心細くなるんです。」
―ユナ先生…北海道出身か…。だからこんなに肌が白いのかな…。
浩太はユナの横顔を盗み見しながら顔を赤らめた。
その瞬間、自分が体調を崩したときの事が頭の中にフラッシュバックした。
モッコは愚痴一つこぼさず献身的に介護してくれた。
美味しいお粥を作ってくれた。
そんな思い出が罪悪感として胸を突き刺してくる。
―いやいや…俺は別に浮気してる訳じゃないぞ!
浩太は頭を振った。




