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「帰ってたの?」
朋美が帰宅するとリビングのソファで和也が寝ていた。
「こんなとこで寝てちゃ風邪ひくわよ…。」
朋美は毛布を持ってきて和也にかけた。
「ただいま。」
和也は薄っすらと目を開けて小さな声で言った。時差ぼけもあるし疲れているのだろう。
「さっきまで私、打合せだったの。買い物にも行ってないし、今から作るのも時間かかるからウーバー頼もうか?」
「うん、俺は何でもいいよ。」
和也はそう言うと横になったままテレビを付けた。
「あぁ、そうそう! 今日お義母さんから電話あったわよ!」
朋美は配達してもらう今晩の夕食を選びながら言った。
「何だって?」
「今週末、遊びに来ないかって。お義姉さん家族も来るらしいの。」
「へぇ…。どうする?」
「それが…私、土曜の夜に予定が入ってて…。この間会ったでしょ? 私の高校時代の友人に…」
「えっ? 彼女から連絡あったのか?」
和也は完全に絵梨の事だと思った。
そして落ち着いてきた胸の鼓動がまた速くなってきた。
「うん。旦那さんが子供たちの面倒見てくれるから夜でも大丈夫なんだって。」
朋美は当然モッコの事を話した。
―子供…旦那さん…? 彼女、ちゃんと家庭があるのか…。そういう感じはしなかったけど…。
和也は急に胸が苦しくなった。その理由が分からなかった。いや、分からない方が自分の為だと、賢いこの男は分かっていた。
逆に絵梨にちゃんと家庭があることで、今まで味わったことの無いこの不安定な気持ちに封が出来ると思った。
「楽しんでおいでよ。久しぶりだろ? 高校時代の友達と会うのは。実家の方はいいよ。俺が少しだけ顔を出しとくから。」
「お義母さん、気を悪くしないかしら…。ただでさえ…子供の事…あなたに迫ってるんでしょう?」
朋美は顔を曇らせた。
「…まぁ…それは…おふくろも年だしな…早く孫の顔が見たいって…そうは思ってるだろうな…」
和也は沈んだ表情を浮かべる妻を後ろから抱きしめた。
「なぁ、そろそろ…俺たちも真剣に考えない? この際さ、朋美も少し仕事をセーブして…。何だったらしばらく辞めてもいいし。経済的な事は心配しなくていいからさ。」
―仕事を辞めてもいい? 簡単に言ってくれるわね…
朋美は夫の軽率な言葉にイラっとした。
横目で夫の顔を見ると、ノンキにニコニコ笑っている。悪気は無いのだろう。しかし悪気が無いところが余計にムカついた。
―もし男が子供を埋めるとしたら、あなたは簡単に仕事を辞める事が出来るの? 今までずっと努力してやっと得た仕事を、積み上げてきたキャリアを手放せるの?
今の時代、一度の結婚が一生続くとは限らない。離婚は普通に有り得る話だ。
いつ自分の身に起きてもおかしくない。
その時に不利益を被るのはいつだって女の方だ。
仕事のブランクが長いと、元の条件で働けるとは限らないし、全く別の仕事を一から始めなければなくなることだってあると思う。
国からの補助があってもそれだけで大学まで出すのは至難の業だ。
自分に対して愛情の無くなった夫からの養育費も当てには出来ない。
実際、元夫に相手が出来ると養育費がストップした…という話は山ほどある。
女こそ経済力が大事だと思う。
朋美も子供が欲しくない訳では無かったが、女にだけのしかかる理不尽さに折り合いをつける事が出来なかった。
しかし今ここで和也と答えの出ない不毛な言い争いをするのは馬鹿らしいし、余計なストレスを貯め込むだけだと朋美は思った。
―この問題の答えを出すのは、和也では無く私だ。まだ少し時間が必要だわ…。とは言って…私もすぐに40になる…。タイムリミットという言葉が頭の中で年々大きくのしかかってくる。
あぁ…したい事はたくさんあるのに、考えなきゃいけない事は山ほどあるのに…女の人生って何故こんなに試練だらけなんだろう…。
だいたい結婚だって女の方がいろいろと面倒くさい。あなたの苗字になりたいの…っていう人は別なんだろうけど、私はそこまで夫の苗字にこだわりは無いし、第一、自分名義の通帳や免許証などモロモロの変更手続きだってどれだけ面倒くさいか!
大変な思いをして結婚しても、もし離婚すればたいていの人は旧姓に戻す。そしてまた山のような名義変更に、知り合いからの詮索が待っている。
もし子供がいれば戸籍をどうするかで問題はもっと複雑だ。
所詮、この世は男にとって都合よく出来ているのよね…。
心の中はモヤモヤしていたが、気持ちをリセットしようとコーヒーを入れた。部屋がコーヒーのいい香りで包まれると、気持ちも軽くなった。
―まぁ…まだ子供もいないのに…今から離婚やシングルマザーになる心配をするのも変な話よね…。そうなるとは限らないってのに…。
朋美は自分と和也の分のコーヒーを持って彼の座っているソファへ行った。
「君の友達のあの子はさぁ…」
和也が朋美からコーヒーを受け取りながら切り出した。
「今は家族が出来て幸せに暮らせているのかな?」
朋美は何故、和也がモッコの幸せについて気にしているのかさっぱり分からなかったが
「絵にかいたような幸せな家庭よ!」
と、当然の事を言った。
「…そうか…」
そういう夫の顔は切ないような表情をしていた。
―まるで恋煩いしている高校生みたいね…。
モッコと夫の仲を疑うことなど有り得ない朋美は、今まで見せたことのない夫の表情が気にもならなかった。
―変な人…
まさか夫が想っていたのは絵梨で、二人が既に会っていたとは知る由も無かった。




