少女の行く先
少女は蒼乃に背を向け歩き出した。その少女の左足首にはめられた銀色のアンクレットが、瞬く星々が示す運命の導きのように揺れていた。足元にまだいたミーコーが、それを見てひょこひょこと追いかけ出した。蒼乃はまだ呆然としながらもそれを見つめ、ふらふらと力の入らない体を持ち上げ、立ち上がった。そして、ミーコ―を追いかけるように歩き出した。
蒼乃がミーコ―に追いつくと、ミーコ―は立ち止まり蒼乃を仰ぎ見た。
「・・・」
何も分かっていないそんな無邪気な姿にどこか救いを感じ、蒼乃は再びミーコーを抱き上げた。そして、蒼乃はふらふらと、先に歩く、その少女の背中について行った――。
駅裏のうらぶれた地区を蒼乃は歩いていた。人間の奥底に潜む、暗い欲望や感情がそのまま漏れ出て溶け込んだような、ねっとりとした淀んだ空気が漂っている。
「・・・」
蒼乃は恐る恐る周囲を見回す。町全体がどこかすえた匂いがした。夜には歓楽街に変貌する駅裏は、表側とは対照的に、昼間だというのにどこか薄暗く怪しげな雰囲気が流れている。
この地域は、母や、学校の先生、周囲の大人たちなどから暗に、決して近寄ってはいけないと言われている、外国人や、在日、貧民、ヤクザ、犯罪者、ホームレスなどが数多く住む地区だった。
「・・・」
少女について蒼乃は、怯えながらそんな町の中を身を小さくして歩いていく。もちろんこの地区に入るのは蒼乃は初めてだった。
しかし、少女は慣れているのか、昼間でもどこか怖い、細い裏路地にまでどんどん、躊躇なく入っていく。
「・・・」
路地裏は薄暗く、更に重苦しい淀んだ空気が漂っていた。立っている古いアパートやビル、家々もまだ昭和初期の戦後を思わせる匂いのするものばかりだった。
家々の影から、怪しく光る人の目が、捕食動物のように蒼乃たちを捉え、物色していた。そして、それは蒼乃たちをねめるように追いかける。
「・・・」
影に佇む汚れた子供たちが、そこだけがギラギラと光る汚れた目で、蒼乃たちをどこか恨めしそうに見つめている。その目は、何か漠然とした狂気と飢えを滲ませた獣の目だった。
「・・・」
蒼乃は冷たい恐怖を背中に感じた。
薄暗い路地裏を抜け、突然明るい太陽の下に出たと思った瞬間、目の前に突然重厚なレンガとコンクリートの入り混じった作りの、いつの時代に建てられたのか全く不明な不思議な外観の、背の高い建物が現れた。そこに少女は入っていく。
「・・・」
蒼乃はその建物を見上げた。その外壁の三分の一程を緑のツタが覆っていた。そのツタの隙間から見えるその外観はあまりに古く、何度も修復や改装を繰り返した跡が見て取れた。それでもやはり、昭和初期、大正、明治時代を思わせる堂々とした体躯はその芯にしっかりと残っていた。
「・・・」
蒼乃も躊躇しながら、少女に続いて中に入る。そこはマンションだった。外観からは分からなかったが、昔、多分、明治時代くらいに商業ビルとして建てられたものを、外観をそのままにマンションに改装したものらしい。
一階の大袈裟なほど広く、天井の高いホールの奥に行くと、無理やり後から取り付けられたと一目で分かる、古いエレベーターが口を開けて待っていた。
それに二人で乗る。それは映画でしか見たことのないような、外側の鉄で出来たアコーディオンカーテンのような扉を自分で閉めなければならない、今のこの時代に本当に存在するのかと、蒼乃が驚くような骨董品だった。それでも、多分、このビルの歴史からしたら、相当新しいものに違いない。
扉の閉められたエレベーターは、大きな機械音と共に、ギシギシと上に重そうに上がって行った。
狭い室内に蒼乃と少女の奇妙な時間が流れる。少女は黙ってガムを噛みながら、ただエレベーターの入り口付近を眺めていた。
「・・・」
蒼乃はなんだか落ち着かなかった。今更だが、改めてなぜ、自分がこんなところにいるのか、何とも言えない不思議な感覚に陥った。それは突然パラレルワールドにでも来てしまったかのような、連続した時間と空間を間違えてしまったような奇妙な感覚だった。
「今の私は本当に、今まで連続して続いていた私なのだろうか・・」
蒼乃は、今の自分をうまく認識できず、どこか自分という実感を失っていた。そんな夢の中のようなふわふわとした感覚に蒼乃は、一人埋没しそうになっていた。
その時、エレベーターが最上階の六階に着き、大きくガタンという音と共に大きく揺れ、止まった。蒼乃は、その揺れではっと我に返った。
少女はあの鉄のカーテンを開け、エレベーターを降り、コツコツとよく響く、まっすぐ伸びた薄暗い大理石の廊下を歩いてゆく。その少女の背について蒼乃もエレベーターを降り、その廊下を歩いて行く。
「・・・」
その時、突然言い知れぬ恐怖が蒼乃の中に激しく湧き上がった。足が震え、背中に冷たい戦慄が走り、意識が暗く遠のいた。ガタガタと、体全体が震えだし、心臓が激しく鼓動を打つ。呼吸も激しくなり、うまく息ができない。今までマヒしていた恐怖が一気に溢れ出し、猛烈な勢いで蒼乃を押し流した。
「・・・」
この薄暗い廊下の向こうに一体何が待っているのか。蒼乃は激しく打ち続ける自分の心臓の鼓動と、荒い呼吸を耳のすぐ近くで感じながら一歩一歩、少女の背について、薄暗い無機質な廊下を歩いて行った。