だいゴワ
「ハァ……」 景が大きなため息をつく。「どうして私が教えなきゃいけないワケ? 本当に意味がわからない。家庭教師でも何でも手配すれば良いじゃない。金なら腐るほどあるんだし」
舞は眼鏡をかけ直す。 「それなら今手配をしているところよ、それまでの間に少しでもカンを取り戻していただかないと」
「あんた視力に問題なんてないでしょ? 前回の検査は、確か……」
「18.0よ」舞はウインクをする。「形から入るのも悪くないでしょ」
景がまたため息をついた。
「……んん。わかんねえ」
俺はシャーペンのケツでアタマを掻く。
「何っで、わかんないのよ! どこまでも愚鈍ね、 死ぬの?」
「うどん……? そう言えば、今日の昼飯は何にする? 昨日はカツ丼だったから、天丼なんてどうだ?」
「ああああああああ!!! ぐ、ど、ん!」
舞はいつのまにか扉を開けて部屋を出ようとしていた。
「私はこれから遺産整理の応援に行きますので、後の方は景に任せます。――ご安心ください。殺させはしませんので」
舞は自分の首を触って見せた。景の同じ場所を見ると、何かチョーカーのようなものが巻かれている。
景の首は、青い血管が透けて見えるほど白く、細い。
「で、問題は解けたの?」
「あぁ、いやあ、まだというか、全然わからないや」
「はぁ、だから! まずはこの例題を読んでから、それと同じように、数字だけ入れ替えれば良いんだって!」
彼女が前のめりになって、参考書を指差す。垂れた黒いブラウスの隙間から、チラリと浅い谷間を望む。
もはや俺は彼女に殺されそうになったことを忘れていた。左眼は完全に損傷して、もう機能していないのに、俺には見える。そういうふうに脳が感じているだけだと医者は言った。だが、確かに見えるのだ、右眼を瞑っていても、彼女の胸元が。
「って、聞いてるの? 寝ないでよ、せっかく説明してるのに」 彼女はまたため息をついて、上を向いたかと思うと、ソファーに寝転がった。「ああ、止めだ止めだあ!」
俺は彼女に殺されそうになった。というか、あの制約がなければ、いまこの瞬間も本気で殺しにくるだろう。でも、なぜか彼女の殺意に、真の悪意はないように思えるのだ。なんてのは、気のせいだろうか。
今も、なんだかんだ文句を言いながらも、親身に勉強の手伝いをしてくれている。根は優しい奴なのかもしれない。
「ちょっと気晴らしに外にでも行かないか? 景も疲れただろ?」
「別に良いけど」
俺が入院した病院は、大紙という名こそついていないが、大紙グループの関係者が経営しているらしい。俺の入院は、搬送から部屋の手配まで、一般の医療関係者に極秘で行われたそうだ。
近くにある公園まで歩いてきた。冬はピークを過ぎて、少しずつ春に近づいている。歩道の脇に植えられた梅の木が蕾を蓄えていた。
「喉が渇いた。小銭を渡すから、ジュースを買ってきて。あたたかいジュースよ」
「ええ」 唐突な命令。お前が給仕係じゃなかったのかよ。ていうか、あたたかいジュースってなんだよ。
「先に外に出たいと言ったのはそっちなんだから、当たり前だろ。ホラ」
そう言って景は赤いコートのポケットから小銭を取り出して、その手を差し出した。俺がそれ受け取ると、彼女は近くのベンチにふんぞりかえって座った。
渋々ながら、俺は自販機を求めて公園内を彷徨っていた。ピークを過ぎたとは言え、やはり風が冷たい。尿意を感じつつ、歩いていると、求めたものは同時に見つかった。先にトイレのほうに向かうと、同時に入ろうとする人がいた。
背丈が俺より高く、すらりとした細身の、スポーツウェアを着た足長い男が、女性用の入り口へ向かっていた。
「あ、あの、そっち女ですよ」
俺が声をかけると、男は肩をビクつかせて足を止めた。だが、すぐに小走りで女性用に入っていった。
俺は何か言うべきか迷ったが、尿意を思い出し、中は入った。
外に出ると、先ほどの人が隣の女性用トイレから出てくるところと同時だった。
俺はポケットの中の小銭を確認して、自販機に向かうと、その人も隣の自販機を眺め始めた。
あたたかいジュースなんてあるのかと半信半疑だったが、確かに、あたたかいオレンジジュースがあった。本当に美味いのかは、やはり疑問だった。
チラリと横を見ると、その人もあたたかいオレンジュースを購入したようだった。流行っているのか。
向こうも俺があたたかいオレンジジュースを買ったことに気づいたようだった。俺自身は無難に缶のホットコーヒーにした。
「これ、美味しいですよね」
やはり彼女は彼女なのだろう。声も中性的なのだが、やはり女性よりな印象であった。
「あっ、いや、今日初めてで」
「あっ、そうなんですね。お連れの方が」
「ええ、まあ」
それでは、と言って彼女は走り出していった。
「さっきは失礼しました!」俺はその背中に思い出したように謝罪した。
俺も急いでベンチに戻って、ふんぞりかえる景に、あたたかいオレンジジュースを投げつけた。
「ぬるい」
「買ってきたのはおれだ。文句言うな」
俺もベンチに座って、ふたり並んで飲んだ。
「なあ、何で舞を選んだんだ」
「何でって」おっ敗したなんて言えない。「金が欲しい身体」これも事実だ。「それと、お前に殺されたくないし」 これも間違いない。
「お前は金を手にするに相応しくない人間だ。お前みたいなやつが金を手にすると、金に支配されて、人に戻れなくなる。今の生活の方が余程人間らしく思えるくらいに、人は変わる。それでも、良い?」
「お金は必要だ。でも、それだけじゃない。やっぱり、高校って所に興味があったんだ。俺が働いてる時期に、他の同い年の奴らが通ってた場所、今年で卒業しちまう場所に、さ。チャンスだと思った」
「……気持ちはわかった。じゃあ、お前が金の亡者になったら、その時はわたしが殺す。そうならないようにせいぜい頑張りなさい」
「ハハハッ、良いね。面白い。有名大を卒業して、大企業に入って、しばらくしたら独立して起業して、大金持ちになって、人生楽しんでやるぜ」
「その前に、まず高校入試からでしょ?」
「ハハッ、そうだそうだ」
「暢気な人……ふふっ」
景は口に手を当ててふわりと笑った。彼女の笑顔を初めて見た気がする。
俺たちはその後も冗談を言い合いながら、病院へ帰ってきた。エントランスに差し掛かり、また左眼が疼く。景色が二重にぼやけだす。俺は立ち止まってしまった。―― 大きなコンクリートの塊が俺たちに向かって迫りくる映像を左眼が見た!
数メートル先にいる景が振り返る。「どうした?」
「景! こっちだ!」 ここにいちゃ危ない!
俺は、手を伸ばす。景はまだ何も気付いていない。
「何言ってんだ、入口はこっちだぞ」
その時頭上で轟音が鳴り響く。ガラス窓が全て砕け散り、爆風が吹き出す。景の足元に陰が差す。
景が頭上のコンクリートに気づき、駆け出しながら手を伸ばす。俺の手が景の手を握りしめた。
そのまま引っ張って、景の体を引き寄せる。
その直後、景のすぐ後ろに大きなコンクリートの塊が落下し、土煙を上げながら地面に減り込んだ。次々に周りにコンクリートの塊が落ちてくる。
「なんで……」
景は驚きの表情と共に、頬を赤く染めている。
ここは危ない、早く逃げるぞ、と言って俺は景の手を引っ張って、走り出した。
直後、また大きな音が背後に聞こえた。コンクリートが落ちたのだ。
俺はそのまま走り続け、もうこれだけ離れれば大丈夫だろうとおもう所までやってきた。
「大丈夫か?」振り返っても景の姿はない。
俺は確かに景の手を握っていた。その肘から先は見当たらず。背後を振り返ると、数十メートル後ろに大きなコンクリートがあった。
「ああああああああああああ!!!」
俺はその手を反射的に離して、放り投げてしまった。
腕の一部と思われるものが、コンクリートの下から見えていた。ダウンジャケットに赤い斑点が無数に跳ねている。コンクリートの隙間から赤い液体や、潰れた白い球体、薄橙色の粘り気のある物体が流れ出てくる。
腰が抜けて、力が出ない。血の海に尻餅をついて、また顔が引きつるのがわかり、そのまま後退りした。
ハァ、ハァ、ハァ!!! 息が出来ない。動悸が激しくなる。
「景……! 景……!! 景……!!! 嘘だ、嘘に決まってる……!!! 俺には、全部見えていたのにッッ!!!」
これもまだ左眼の幻影なんだろ!? そうなんだろ?
俺は我を忘れて走り出していた。
救急車か、パトカーか、消防車か、サイレンの音が混じり合って、不協和音が鳴り響く。日は既に沈みかけ、曇がちな空が赤黒く染まる。赤いライトが枝葉の影を作り出す中、俺は叫びながら街を駆けた。
景の笑顔が脳裏をよぎる。彼女は悪い人じゃなかった。暴力的だけど、俺を守ろうとしてくれていた。不器用なだけだったんだ、きっと。
顔面が涙と鼻水と涎、あらゆる体液でぐちゃぐちゃになっていた。
もっと話したかったよ。そうすれば、もっと仲良くなれたかもしれないのに。
「うわあああああああああ」
俺は泣き叫んで道路に飛び出した。視界は不良、涙のせいだ。車が通っていることくらい判りそうなものだが、飛び出した時には遅かった。
クラクションが鼓膜を震わせる。俺は、茫然と立ち尽くし、その黒い鉄の塊をじっと見ていた。
急ブレーキをかけられたそれは、甲高い音を発して、目と鼻の先で静止した。俺は今度こそ本当に力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
運転席のドアが開いて、黒スーツの男が駆け寄ってくる。
「おい、大丈夫か!? 怪我はないか?」
男がサングラス越しに俺の顔を覗き見る。
「一体何事?」
後部座席から降り立ったらしい女が男に問いかける。
「お嬢様、座席にお戻りになってください。この男が飛び出してきたので急ブレーキをかけたのです」
「そう、気をつけなさい」
そのとき風が吹いた。春を運んでくる風に違いない。その風は少し悪戯好きで、女の子のスカートをめくってしまうものだ。
「――ひよこが空を飛んでいる」
何かに気づいたらしい女――ミドルティーンくらいだろう――が高いヒールをもって俺の眉間を貫いた。
俺はフラフラ歩道の脇の植え込みの中に倒れ込んだ。
「お嬢様ッ!? 何をっ」
少女は何も言わずに後部座席に乗り込んだ。
「おいおい、まじで大丈夫か、兄ちゃんよォ」
車の窓を下げて少女が檄を飛ばす。
「いいから早く出しなさい!」
「おっと、お嬢がお怒りだ、早く行かねえと。とりあえず、気をつけて帰れよ!」
眉間の神経が疼き、まぶたが重くなる。もう身体に力が入らない。なんか最近ナブられてばかりだなぁ、なんてボヤきながら、植え込みの中で仰向けになって。
理人は沈むように意識を失った。