表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

だいゴワ

 


「ハァ……」 景が大きなため息をつく。「どうして私が教えなきゃいけないワケ? 本当に意味がわからない。家庭教師でも何でも手配すれば良いじゃない。金なら腐るほどあるんだし」


 舞は眼鏡をかけ直す。 「それなら今手配をしているところよ、それまでの間に少しでもカンを取り戻していただかないと」


「あんた視力に問題なんてないでしょ? 前回の検査は、確か……」


「18.0よ」舞はウインクをする。「形から入るのも悪くないでしょ」


 景がまたため息をついた。


「……んん。わかんねえ」


 俺はシャーペンのケツでアタマを掻く。


「何っで、わかんないのよ! どこまでも愚鈍ね、 死ぬの?」


「うどん……? そう言えば、今日の昼飯は何にする? 昨日はカツ丼だったから、天丼なんてどうだ?」


「ああああああああ!!! ぐ、ど、ん!」


 舞はいつのまにか扉を開けて部屋を出ようとしていた。


「私はこれから遺産整理の応援に行きますので、後の方は景に任せます。――ご安心ください。殺させはしませんので」


 舞は自分の首を触って見せた。景の同じ場所を見ると、何かチョーカーのようなものが巻かれている。


 景の首は、青い血管が透けて見えるほど白く、細い。


「で、問題は解けたの?」


「あぁ、いやあ、まだというか、全然わからないや」


「はぁ、だから! まずはこの例題を読んでから、それと同じように、数字だけ入れ替えれば良いんだって!」


 彼女が前のめりになって、参考書を指差す。垂れた黒いブラウスの隙間から、チラリと浅い谷間を望む。


 もはや俺は彼女に殺されそうになったことを忘れていた。左眼は完全に損傷して、もう機能していないのに、俺には見える。そういうふうに脳が感じているだけだと医者は言った。だが、確かに見えるのだ、右眼を瞑っていても、彼女の胸元が。


「って、聞いてるの? 寝ないでよ、せっかく説明してるのに」 彼女はまたため息をついて、上を向いたかと思うと、ソファーに寝転がった。「ああ、止めだ止めだあ!」


 俺は彼女に殺されそうになった。というか、あの制約がなければ、いまこの瞬間も本気で殺しにくるだろう。でも、なぜか彼女の殺意に、真の悪意はないように思えるのだ。なんてのは、気のせいだろうか。


 今も、なんだかんだ文句を言いながらも、親身に勉強の手伝いをしてくれている。根は優しい奴なのかもしれない。


「ちょっと気晴らしに外にでも行かないか? 景も疲れただろ?」


「別に良いけど」




 俺が入院した病院は、大紙という名こそついていないが、大紙グループの関係者が経営しているらしい。俺の入院は、搬送から部屋の手配まで、一般の医療関係者に極秘で行われたそうだ。


 近くにある公園まで歩いてきた。冬はピークを過ぎて、少しずつ春に近づいている。歩道の脇に植えられた梅の木が蕾を蓄えていた。


「喉が渇いた。小銭を渡すから、ジュースを買ってきて。あたたかいジュースよ」


「ええ」 唐突な命令。お前が給仕係じゃなかったのかよ。ていうか、あたたかいジュースってなんだよ。


「先に外に出たいと言ったのはそっちなんだから、当たり前だろ。ホラ」


 そう言って景は赤いコートのポケットから小銭を取り出して、その手を差し出した。俺がそれ受け取ると、彼女は近くのベンチにふんぞりかえって座った。


 渋々ながら、俺は自販機を求めて公園内を彷徨っていた。ピークを過ぎたとは言え、やはり風が冷たい。尿意を感じつつ、歩いていると、求めたものは同時に見つかった。先にトイレのほうに向かうと、同時に入ろうとする人がいた。


 背丈が俺より高く、すらりとした細身の、スポーツウェアを着た足長い男が、女性用の入り口へ向かっていた。


「あ、あの、そっち女ですよ」


 俺が声をかけると、男は肩をビクつかせて足を止めた。だが、すぐに小走りで女性用に入っていった。


 俺は何か言うべきか迷ったが、尿意を思い出し、中は入った。


 外に出ると、先ほどの人が隣の女性用トイレから出てくるところと同時だった。


 俺はポケットの中の小銭を確認して、自販機に向かうと、その人も隣の自販機を眺め始めた。


 あたたかいジュースなんてあるのかと半信半疑だったが、確かに、あたたかいオレンジジュースがあった。本当に美味いのかは、やはり疑問だった。


 チラリと横を見ると、その人もあたたかいオレンジュースを購入したようだった。流行っているのか。


 向こうも俺があたたかいオレンジジュースを買ったことに気づいたようだった。俺自身は無難に缶のホットコーヒーにした。


「これ、美味しいですよね」


 やはり彼女は彼女なのだろう。声も中性的なのだが、やはり女性よりな印象であった。


「あっ、いや、今日初めてで」


「あっ、そうなんですね。お連れの方が」


「ええ、まあ」


 それでは、と言って彼女は走り出していった。


「さっきは失礼しました!」俺はその背中に思い出したように謝罪した。


 俺も急いでベンチに戻って、ふんぞりかえる景に、あたたかいオレンジジュースを投げつけた。


「ぬるい」


「買ってきたのはおれだ。文句言うな」


 俺もベンチに座って、ふたり並んで飲んだ。


「なあ、何で舞を選んだんだ」


「何でって」おっ敗したなんて言えない。「金が欲しい身体」これも事実だ。「それと、お前に殺されたくないし」 これも間違いない。


「お前は金を手にするに相応しくない人間だ。お前みたいなやつが金を手にすると、金に支配されて、人に戻れなくなる。今の生活の方が余程人間らしく思えるくらいに、人は変わる。それでも、良い?」


「お金は必要だ。でも、それだけじゃない。やっぱり、高校って所に興味があったんだ。俺が働いてる時期に、他の同い年の奴らが通ってた場所、今年で卒業しちまう場所に、さ。チャンスだと思った」


「……気持ちはわかった。じゃあ、お前が金の亡者になったら、その時はわたしが殺す。そうならないようにせいぜい頑張りなさい」


「ハハハッ、良いね。面白い。有名大を卒業して、大企業に入って、しばらくしたら独立して起業して、大金持ちになって、人生楽しんでやるぜ」


「その前に、まず高校入試からでしょ?」


「ハハッ、そうだそうだ」


「暢気な人……ふふっ」


 景は口に手を当ててふわりと笑った。彼女の笑顔を初めて見た気がする。


 俺たちはその後も冗談を言い合いながら、病院へ帰ってきた。エントランスに差し掛かり、また左眼が疼く。景色が二重にぼやけだす。俺は立ち止まってしまった。―― 大きなコンクリートの塊が俺たちに向かって迫りくる映像を左眼が見た!


 数メートル先にいる景が振り返る。「どうした?」 


「景! こっちだ!」 ここにいちゃ危ない!


 俺は、手を伸ばす。景はまだ何も気付いていない。


「何言ってんだ、入口はこっちだぞ」


 その時頭上で轟音が鳴り響く。ガラス窓が全て砕け散り、爆風が吹き出す。景の足元に陰が差す。


 景が頭上のコンクリートに気づき、駆け出しながら手を伸ばす。俺の手が景の手を握りしめた。


 そのまま引っ張って、景の体を引き寄せる。


 その直後、景のすぐ後ろに大きなコンクリートの塊が落下し、土煙を上げながら地面に減り込んだ。次々に周りにコンクリートの塊が落ちてくる。


「なんで……」


 景は驚きの表情と共に、頬を赤く染めている。


 ここは危ない、早く逃げるぞ、と言って俺は景の手を引っ張って、走り出した。


 直後、また大きな音が背後に聞こえた。コンクリートが落ちたのだ。


 俺はそのまま走り続け、もうこれだけ離れれば大丈夫だろうとおもう所までやってきた。


「大丈夫か?」振り返っても景の姿はない。


 俺は確かに景の手を握っていた。その肘から先は見当たらず。背後を振り返ると、数十メートル後ろに大きなコンクリートがあった。


「ああああああああああああ!!!」


 俺はその手を反射的に離して、放り投げてしまった。


 腕の一部と思われるものが、コンクリートの下から見えていた。ダウンジャケットに赤い斑点が無数に跳ねている。コンクリートの隙間から赤い液体や、潰れた白い球体、薄橙色の粘り気のある物体が流れ出てくる。


 腰が抜けて、力が出ない。血の海に尻餅をついて、また顔が引きつるのがわかり、そのまま後退りした。


 ハァ、ハァ、ハァ!!! 息が出来ない。動悸が激しくなる。


「景……! 景……!! 景……!!! 嘘だ、嘘に決まってる……!!! 俺には、全部見えていたのにッッ!!!」 


 これもまだ左眼の幻影なんだろ!? そうなんだろ?


 俺は我を忘れて走り出していた。


 救急車か、パトカーか、消防車か、サイレンの音が混じり合って、不協和音が鳴り響く。日は既に沈みかけ、曇がちな空が赤黒く染まる。赤いライトが枝葉の影を作り出す中、俺は叫びながら街を駆けた。


 景の笑顔が脳裏をよぎる。彼女は悪い人じゃなかった。暴力的だけど、俺を守ろうとしてくれていた。不器用なだけだったんだ、きっと。


 顔面が涙と鼻水と涎、あらゆる体液でぐちゃぐちゃになっていた。


 もっと話したかったよ。そうすれば、もっと仲良くなれたかもしれないのに。


「うわあああああああああ」


 俺は泣き叫んで道路に飛び出した。視界は不良、涙のせいだ。車が通っていることくらい判りそうなものだが、飛び出した時には遅かった。


 クラクションが鼓膜を震わせる。俺は、茫然と立ち尽くし、その黒い鉄の塊をじっと見ていた。


 急ブレーキをかけられたそれは、甲高い音を発して、目と鼻の先で静止した。俺は今度こそ本当に力が抜けて、その場に崩れ落ちた。


 運転席のドアが開いて、黒スーツの男が駆け寄ってくる。


「おい、大丈夫か!? 怪我はないか?」


 男がサングラス越しに俺の顔を覗き見る。


「一体何事?」


 後部座席から降り立ったらしい女が男に問いかける。


「お嬢様、座席にお戻りになってください。この男が飛び出してきたので急ブレーキをかけたのです」


「そう、気をつけなさい」


 そのとき風が吹いた。春を運んでくる風に違いない。その風は少し悪戯好きで、女の子のスカートをめくってしまうものだ。


「――ひよこが空を飛んでいる」


 何かに気づいたらしい女――ミドルティーンくらいだろう――が高いヒールをもって俺の眉間を貫いた。


 俺はフラフラ歩道の脇の植え込みの中に倒れ込んだ。


「お嬢様ッ!? 何をっ」


 少女は何も言わずに後部座席に乗り込んだ。


「おいおい、まじで大丈夫か、兄ちゃんよォ」


 車の窓を下げて少女が檄を飛ばす。


「いいから早く出しなさい!」


「おっと、お嬢がお怒りだ、早く行かねえと。とりあえず、気をつけて帰れよ!」


 眉間の神経が疼き、まぶたが重くなる。もう身体に力が入らない。なんか最近ナブられてばかりだなぁ、なんてボヤきながら、植え込みの中で仰向けになって。


 理人は沈むように意識を失った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ