第三話(A.D.356)初陣皇帝
サルスティウスが反対したら、軍団は絶対に動かなかっただろう。
ユリアヌスを新米少尉、トゥルートを先任軍曹とするならば、サルスティウスは『准尉』とでもいうべき存在だった。
だから、ユリアヌスが決定し、サルスティウスが追従すれば、トゥルートがいくら内心反対でも無力だ。
しかし、問い質したくはある。
現有戦力で、しかも皇帝があのユリアヌスで、敵地となった故郷を奪還するなど本当に可能なのか? 正直、トゥルートには現状維持すら難しいように思えるのだ。
そんな訳で、目立たぬようにその夜サルスティウスを訪ねると、彼は苦渋の顔で答えた。
「一応、理に適ってはいるのだよ。……元々、ユリアヌス様は兵法に限らず教養はある方だし、最低限の訓練は受けてきたというのも嘘ではないようだ」
「聞きたいのはあなたが成功するとお考えか否かなんですがね?」
「……私はローマの軍人で、ユリアヌス様は皇帝だ。上意下達は組織の基本――軍紀の乱れが何を招くかはお前とて知っているだろう」
つまりはそういう事だった。
ユリアヌスの思いついた作戦とは、サルスティウスもとっくに思いついてはいたが、あえてやらなかった作戦に過ぎないのだ。成功の見込みが高いなら、とっくに実行済み。ただ失敗の見込みが高いから、廃案になっていたという事だ。しかし、
「それに……そうだな。お前も世界情勢を少しは知っていた方がいいか……」
とサルスティウスは地面に絵を描いた。そして、指で示す。
「これがローマ世界の西半分の概略図だ」
「東方は今のところ、関係ないから割愛したが、この地図に描かれているほぼ全域がかつてはローマ帝国の支配下だったということはわかるな?」
「絵……下手なんですね……」
「五月蠅い(うるさい)。そして、今ではゲルマニアが野蛮人に完全制圧され、このガリアも半ば野蛮人の支配下にあることもわかるな?」
「アフリカ諸国は勿論、ポルトガルとかオランダとかスイスとかその他諸々も怒りそうな地図ですね……」
「訳のわからん事を言うな!」
サルスティウスはまるで天命を授かったのかの如く、トゥルートを怒鳴りつけた。
「重要なのは、ここでガリアまで失ったらどうなるかという事だ!」
「ローマ本国が包囲される?」
「戦士の発想だな」
「すみませんね。突撃馬鹿なもんで」
「いや、それも正しい。しかしな、この規模で重要なのは経済だ。ガリアを中継点としているブリタニアやヒスパニアとの交易が完全に途絶することが問題なのだ。これはローマ帝国の西半分を失うに等しい」
言われている事がトゥルートには今一つわからない。いや、補給がなくなると言われれば、前線の兵士である以上、その意味は分かるのだが。
サルスティウス達が恐れているのはそれだけではないらしい。
「軍事物資以外の流通も途絶える?」
「民間でも死人が増えるだろうな」
「???」
トゥルートは疑問符を浮かべた。対するサルスティウスは大人である。すぐ説明を補足する。
例えば、塩も薪も人間の生存に不可欠なものだ。が、塩は海で作り易く、薪は山で採り易い。
仮に、海では百の薪を採っているが、同じ人手で千の塩を作れ、山では百の塩を採っているが、同じ人手で千の塩を作れるとしよう。ここで海と山での流通が確保され、海では薪を採るのを止め、すべて山からの輸入に頼るようになり、山では塩を採るのを止め、すべて海からの輸入に頼るようになったとする。
そうすると、同じ人手でも単純計算では、薪も塩も九百ずつ採れる量が増える。山で使える塩は九倍になり、海で使える薪も九倍になるのだ。勿論、塩や薪を運び、売り買いする商人がピンハネをするだろうが、一割程度中抜きされたところで、総量が九倍になるなら、お釣りがくる。
これらを理想論と一笑するのは容易い。現実の商品経済は一枚岩では行かないからだ。だが、先の述べた比較優位性やその他多くの相乗効果によって、安定した流通を保証されれば、世界全体の富――そして、その富によって救われる人命が増えるのもまた現実なのだ。
それらをローマはガリアやヒスパニアやブリタニアでやっていた。
これが世界帝国の力の源である。
では、その前提が崩れれば?
前述の原理で、倍増している生産力が激減したら?
「我々が日頃使っている金属の補充すらままならなくなるだろう」
「……はあ、さすがに元財務官僚様は難しい事を考えていらっしゃる」
「いや、半分はユリアヌス様の受け売りだよ。私も観念的に把握していただけで、このように論理的な思索はしていなかった」
サルスティウスは本気で感心しているようで、ユリアヌス曰くの話を続ける。
「『ローマは土木国家だ。高速道路や上下水道が優秀なのも事実だ。それらのインフラの重要性は言うまでもない。が、それは自己完結しており、個々の小規模国家でも一定維持できる。しかし、ネットワークは帝国でなければ、維持できない。ローマ帝国の価値はネットワークにあるともいえる。逆に言うなら、そのネットワークが維持できなくなれば、諸国民もローマに帰属する価値を見失ってしまう。そうなれば、ローマからの離反者が連鎖的に相次ぎ、帝国はバラバラになり、物流も滞る。生活水準の低下、人口の激減が待っているだろう。それこそ、インフラ整備すらままならなくなる程に。高度技術集積体たる水道橋などは悪魔の仕業として、忌み嫌われるかもしれない』」
「…………」
「『そう、さしずめ――【暗黒時代】……!』」
「……あいつのそういう言い回し、何とかなりません? 背中痒くなってくる」
「そうか? 若者らしくていいと思うのだがなぁ……」
――駄目だ。この人は……。
トゥルートは呆れた。サルスティウスは経験と知性を兼ね備えた頼れる上司である。なのに、ユリアヌスに対しては我が子を神童扱いする親馬鹿になってしまうらしい。
「いずれにせよ、この地図のうち、ブリタニアとヒスパニア、そして、今我々がいるガリアがユリアヌス様の権能領域、逆に言えば責任範囲だ。……そして、この★がお前の故郷でもあるコローニア・アグリッピナ」
ここを奪還できれば、とりあえずガリアは野蛮人による半占領状態から脱出できる。少なくとも、この★のところで栓ができれば、ゲルマニアから延々と野蛮人が流れ込んでくることもなくなる。そうすれば、『内政』の問題に移れる。仮に野蛮人がガリアに残留しようと、各個撃破も容易い。
また、既に半ば途絶しているガリアを中継点としたブリタニアとヒスパニア、さらにローマ本国との物流も回復する。そうなれば、先に述べた原理で国力も取り戻せるというわけだ。
「了解。コローニア・アグリッピナ奪還の経済的な意義とやらは解り……解ったつもりです。しかし、先程もお尋ねしたように、問題はそれが軍事的に可能か否かでしょう?」
「…………」
途端にサルスティウスは黙り込んだ。
思わず、トゥルートの声が荒くなる。
「あいつ……いえ、ユリアヌス様はわかっていらっしゃるんですか? 今のガリアの状況を! 昔話は随分知っているみたいですけれど、……もしかして、今のローマに昔と同じ力があると思っているんじゃないでしょうね?」
「知らずとも、肌でわかるだろう。いや、わざわざ冬のアルプスを越えてきたのは、そのためかもしれない」
「そうでしょうか……」
正直トゥルートにはユリアヌスがそこまで賢明に見えない。
が、サルスティウスは言葉を重ねる。
「……そう言えば、おまえは平和を知らない世代か……。いや、私も同じだな……。【ローマの平和(パクス=ロマーナ)】が機能していた時代など書物で読んだことしかない」
その頃にはアルプス越えなど、さしたる苦労ではなかったという。
整備された街道沿いに歩いて行けば、一市民でもエジプトからガリアまで辿りつけた時代があった。蛮族は遥か北方の防衛線で喰い止められ、その内側の治安は保たれていた頃があった。――ましてや、皇帝の称号を持つならば尚の事、幹線道路に一定間隔で配置されている公営宿泊所で、十二分な補給と休息が約束されていた時代もたしかにあったのだ。
しかし、それも全て過去の話だ。
今のガリアなどでは、武装したローマ軍団ですらも、道を歩く時にビクビクしている。自国領土のはずが、いつ蛮族が襲撃してくるかわからない危険地帯になってしまったからだ。
既に【ローマの平和(パクス=ロマーナ)】は過去の話なのだ。
「だからこそ、ユリアヌス様は冬のアルプス越えを決意なされたのだろう。昔のローマの強さではなく、今のローマの弱さを知る為に……。頭でっかちという自覚があるからこそ、現実の厳しさを頭ではなく、身体に叩き込むために……」
「それは……!」
――あのへなちょこ野郎を過大評価し過ぎだ!
とトゥルートは苛立った。所詮はこのサルスティウスも元官僚だ。文人肌のユリアヌスとはさぞ話も合うだろう。だから、見る目も甘くなるに違いない。
しかし、トゥルートにも理性はある。さすがに言葉を控えた。
「なら、二個軍団でも連れてくりゃいいのに……」
「だから、今のローマにその力がないのだ」
もっとも力があれば、二個軍団をド素人のユリアヌスに指揮させる事もなければ、そもそもユリアヌスが皇帝になる事もないだろうが――とサルスティウスは苦笑した。
「じゃあ、せめて、もっと皇帝らしいお膳立てをするべきでは?」
豪奢な服、豪華な冠、派手な取り巻き――そういったものがあるだけで、皇帝の権威は違うだろう。権威が軍団の士気向上に繋がるのなら、トゥルートも応援する。だというのに、あのユリアヌスときたら、まるで貧乏学生ではないか。
「挙句、アルプスで迷子になったりして……。曲がりなりにも皇帝でしょう。お忍びでも伴の一人や二人は侍らせるべきでは?」
「その理由はいずれお前にもわかるだろうが……」そこでサルスティウスは苦笑の中の苦悩を強めた。「今は知らないままでいてくれ。……頼む」
「……」
……何だかんだと言って、あたしはあんたを信頼している。だから文句は言わない。
だが、知識人というのは本当にわからない。
無学なトゥルートは心の底から思った。
***
意外とユリアヌスには体力があった。
どうしようもなく、ヘタレだが、忍耐もあった。
実際、過酷な行軍でも泣き言一つ洩らさない。内心、音を上げる事を期待していたのに。
――一介の新兵とすれば、そこそこまともか……。
トゥルートは少し見方を変えてみる。皇帝と言えば、御輿に乗って、宮殿を渡り歩く印象があった(また、それは一般論として正しい)。が、ユリアヌスは自ら馬に跨り、冬のガリアを進んでいる。ぶっちゃけ、馬術も下手糞で、おっかなびっくりな有り様だが、その分、兵士と辛苦を共にしていると言えなくもない。
――夜は慣れないなりに政務に励んでいるらしいしな……。
文盲に近いトゥルートにはできない事だ。その点ではユリアヌスも立派に見えた。
……勿論、それは勘違いだったのだが……。
ユリアヌス率いるローマ軍は、兵力を集めつつ北に向かっていった。
ガリアは野蛮人にズタズタにされているが、逆に言えば、その切れ端は各地に残っている。散り散りになってしまっているが、ローマ軍の戦力はあちらこちらに残っている。それを【皇帝】ユリアヌスの名のもとに合流させていた。
――ユリアヌスを『皇帝陛下』『皇帝陛下』と持ち上げていたのはこのためか……。
トゥルートにもサルスティウスの考えがわかってきた。ユリアヌスがド素人でも構わない。重要なのは皇帝の権限と権威で戦力を集める事なのだ。
野蛮人は勇敢だが、統率に欠ける。ガリアに侵入してきているのも、水が高いところから、低いところに流れる様なものだ。確固たる目標や計画があるわけでもない。
こちらがシステマティックに戦力集中の原則を実行しても、それを妨害される危険は低い。また各地の防衛も都市の城壁で何とかしのげる。繰り返すが、野蛮人には統率に欠けるので、動きがバラバラなのだ。戦力を集中して、困難な城壁攻略に挑む事が出来ない。
結果、中継点のドゥロコルトルム(現ランス)に集まったローマ軍兵士は二万にもなった。
これだけの戦力なら、ユリアヌスが多少の下手を打っても、最後は数で押し切れるだろう。それに実際の指揮はサルスティウスが執り、実際の戦闘はトゥルート達が行えばよい。
――なるほど、お飾りの皇帝にも価値がある……。
季節は春。トゥルートの気分も高揚していた。
既に大軍となったユリアヌス一行はコローニア・アグリッピナに向けてさらに前進する。
しかし、戦力が集まれば、それ故の問題が起きるのだった。
「揉め事だって?」
行軍中、報告を受けたユリアヌスの声は怯えていた。何でも、最近合流した部隊の一つが、他の部隊と喧嘩になったという。今のところ、死者は出ていないようだが、このままでは敵と戦う前に味方同士で殺し合う羽目になる。
ユリアヌスは思わず飛び出し、その場に向かおうとする。だが、
「皇帝陛下っ!」
とサルスティウスが大声を出した。そして、
――その程度の事は自分がやる。あなたはそろそろ自ら率先して動く悪癖を改めなさい。
無言の視線で実質的な指揮官は名目上の指揮官を諌めた。
その上でサルスティウスがユリアヌスに進言する。
「あの部隊はかなり強いガリア訛りで話します。揉め事の原因もそこにあるかと――ですが、私なら各種方言も理解できます。ここは是非とも……」
「う、うん。そうだね。サルスティウス、君に任せるよ」
「御意!」
そして、サルスティウスはユリアヌスの下を離れた。
しかし、この判断をサルスティウスは生涯後悔する事になる。
***
いきなり、野蛮人が背後から襲撃していた。
――だが、数で圧し返せる……!
そう考え、トゥルートは周りを見渡す。
二万の味方が……そこにはいなかった。
「え……?」
俯瞰すれば、そこは丘陵地帯だったのだろう。
大軍が歩ける場所ではなく、細く長い隊列になりがちだ。全体としては、二万の兵士がいたはずだが、それらが分散してしまっていたのだ。
文官とはいえガリア出身で、地理に精通しているサルスティウスがいれば、避けられた失敗だったろう。しかし、この場にそのサルスティウスはいない。トゥルートもゲルマニア出身で、この辺りの地理にそこまで詳しくない。第一、トゥルートの任務は護衛であって指揮ではない。
逆に野蛮人は何年もこの辺りで略奪を続けており、既に地理を熟知している。さらに勇敢で実戦経験も豊富。統率に欠けるという短所も、裏を課せば、臨機応変に動ける長所になる。
勝てるはずがなかった。
それでもトゥルート達は必死に応戦する。
野蛮人はアラマンニ族らしい。槍で攻めてきた。だが、トゥルートも槍を最も得意とする。乱戦になったが、それ故に個人の武勇がものをいう。そして、アラマンニ族達も己の槍働きに誇りを持っていたので、必然、槍と槍の争いになる。ならば、
「【槍戦】であたしに勝てる奴はいない!」
トゥルートは腰を入れた薙ぎ払いで、敵兵の首級を刎ね飛ばす。
我ながら、会心の一撃だった。だが、その右隣では戦友が突き殺され、前方では新兵が射殺された。
「くそっ……!」
トゥルートが獅子奮迅の働きで三人殺しても、敵兵はその間に十人を殺す。
当然だ。一人の武勇で戦局が覆るはずもない。
結局は戦術戦略がものを言う。指揮官こそ戦局を動かす鍵……と、トゥルートは衛士本来の役割を思い出し、背後を振り返る。しかし……、
ユリアヌスは初めての実戦の恐怖で泣き喚いていた。
「プラトン、助けてよ! アリストテレス、僕を助けてよ!」
ユリアヌスは一人裏返った声を上げていた。
皇帝の衣装をまとったクソガキが泣き喚いていた。
ローマ軍団は敗勢においても、皆が命がけで戦っていた。だが、ユリアヌスは一人、自分に心地の良い幻想に逃げ込んでいた。
「ぼ、僕は哲学者になりたいんだ。元々、軍人やら皇帝やらになんか、なりたくは……!」
「…………っ!!」
混乱の中、衛士トゥルートは皇帝ユリアヌスをぶん殴った。
さらに皇帝陛下の首根っこを馬から引き下ろす。「兄さん……兄さん……!」と意味不明のたわ言を繰り返しているが、知った事ではない。
そして、トゥルートはユリアヌスをそのまま引き摺って立ち去った。
衛士として、皇帝を守ったのでは断じてない。
この馬鹿を自らの手で殴り殺さねば、気が済まなかったのである。