第二話(A.D.355)衛士憤懣
「で、【皇帝】って何?」
二人っきりになった途端、トゥルートが訊ねてきた。
ユリアヌスが左右を見渡しても、助けてくれそうな人間はいない。一応自分は皇帝のはずだが、まだ意識されていないようだ。頼みの綱のサルスティウスは「とりあえず、トゥルートにこの宿営地の案内でもさせて下さい。私は皇帝陛下を襲った野蛮人を調べてみます」と言って、ユリアヌスをその野蛮人と二人きりにして去って行った。
で、このトゥルートと呼ばれる野蛮人が開口一番に訊ねてきたのだ。
すなわち、
――『そも【皇帝】とは何者か?』――と。
意外な展開にユリアヌスは思わず唸ってしまう。
「なるほど……『そも【皇帝】とは何者か?』ですか……これは深遠な命題ですね」
「そうか?」
「えー、ローマがSPQR=【元老院並びにローマ市民(Senatus PopulusQue Romanus)】を示す……言わば、共和国であるというのは御存知ですね?」
「えっ? そうだったの?」
「……ローマ軍の旗や盾などには『SPQR』と書いてありませんか?」
「あれって、そういう意味だったのか?」
「……まあ、有名無実化していますからね。では、そこから説明しましょう」
ユリアヌスは息を調えた。どうやら、この野蛮人も先程と違い、問答無用で襲いかかってはこないようだ。なら、これは元学者志望の知性を見せつける好機である。
だから、教師の口調で滔々と説く。
「ローマも誕生した時には王国だったと言われています。つまり、王がいたのです。しかし、伝説や神話の域を出ません。そもそも王国と言いながらも、王位が世襲されていませんし、選挙で選ばれていた形跡すらあります。元々、ローマは開拓農民の集まりでしたから、その中の有力者が民衆の承認を得て、王を名乗っていたという事でしょう。要するに王と言っても、村長に箔を付けただけだったのでしょうね。しかし、時代が下るとローマは王制をやめ、共和制へと移行します。そして、この頃から資料文献も充実し始め、まともな歴史になってきます。また、執政官や護民官、そして独裁官などの制度も整い始めます。とどのつまり、大雑把な慣習による取り決めで動いてきた開拓村落も、規模の拡大に伴い、システマティックな制度が必要になったという事でしょう。そして、そのシステマティックな制度の中では、【王】という曖昧な地位は許されなかったのですね。この共和制はそれなりにうまく機能し、ローマはあの大国カタルゴや勇将ハンニバルをも打ち倒し、地中海世界の覇者となります。ですが、実際に地中海世界の覇者となってから、共和制が機能不全に陥りました。後世の目で見れば、ローマは共和制で治めるには大きく成り過ぎたのでしょう。ローマが開拓農民の集まりであった頃は、共和制で問題なかったはずです。市民すべてが顔見知りという牧歌的な世界なら、直接民主制がむしろ最適かもしれません。ローマがイタリア半島を制覇した辺りでも、元老院主体の間接民主制でやっていけます。実際、その体制で、東はエジプト、西はブリタニア(現イギリス)やヒスパニア(現スペイン)まで、勢力を拡大するのですから。問題はその後です。エジプトやブリタニアもローマの一部になったとして、それが共和制で纏まるかという事です。勿論、無理でした。エジプト人がブリタニアの事情をも考慮して、政策決定に参加するなんて出来るわけがありません。その逆も然り。見た事も言った事もない異郷を鑑みるなど、出来るわけがないのです。地球の裏側の事情をも知る事ができる通信技術があるならともかくね。結果、共和政は機能不全に陥り、百年も内乱が続いた程です。この内乱を終息させかけたのが、あのガイウス・ユリウス・カエサルです。この『カエサル』の家族名が【皇帝】の由来ですね。つまり、村社会の原理だった共和制から、広大な領土統治に特化した皇帝専制へと移行すれば、抜本的な問題解決になる――かもしれないというところで、カエサルは暗殺されます。そして、その後継者となったのが、カエサル家の養子になったオクタウィアヌスです。このオクタウィアヌスが内乱に終止符を打ち、【ローマの平和(パクス=ロマーナ)】を取り戻した功績で与えられた称号が【尊厳者】――これも【皇帝】の由来になります。ただ、カエサルが元々家名であり、複数存在する事が前提になっているのに対し、アウグストゥスはあくまでも個人に与えられる称号です。また、アウグストゥスになる者はカエサル家の養子になるという手順も踏んでいます。だから、今のラテン語では、アウグストゥスには【第一皇帝】【正帝】という意味合いがあるのに対し、カエサルには【次期皇帝】【副帝】という意味合いがありますね。そして、僕はこの【カエサル(カイザー)】に相当します。ああでも【統帥権】を持つ【インペラトル(エンペラー)】でもありますよ」
とユリアヌスは自慢げに話を結んだ。
これに対するトゥルートの反応は以下の通りだ。
「ウザい。キモい。オタク死ね」
「ええーーっ!」
「説明が長いんだよ。もっと短くまとめれねーの?」
「そ、そんな……概論は得意だったのに……皆にも『そのまま教科書にできる出来だね』って褒められていたのに……」
「それ皮肉じゃねーの?」
「ち、ちちちちち違うよ。こここここれでもぼぼぼぼくは……」
「で、要するにお前は偉いの? 偉くないの?」
「……このローマ世界では二番目に偉い……はず」
「皇帝なのに二番目?」
「だから……そもそもローマに皇帝という職業は……」
「それはもういい。とにかく皇帝って、偉いんだろ? 一番だろうが二番だろうが、その辺の将軍よりもずっと偉いんだろ?」
「うん」
それがわかったのに何で君は僕を敬わないの?――と言いたがったが、ユリアヌスは言葉を控えた。相手は短気で、二人の距離は近く、何よりトゥルートは【衛士】なので、その手には【儀鉞】があり、その刃は黒光りしているからだ。
「偉いんなら、メディオラヌム(現ミラノ)にでもいればいいじゃん。ここも、ルグドゥヌム(現リヨン)ほどじゃないけど、もう安全じゃないんだし。つーかさ、何で冬にアルプス越えしようとした? いくら街道沿いでも、せめて春まで待ってろよ。そうすりゃ……」
あんな目に会う事もなかったろうに――とトゥルートは仄めかす。
対するユリアヌスは感心した。どうも、無学だが聡明な少女(?)らしい。皇帝のなんたるかも知らない癖に、季節と地勢から瞬時に危険を見抜いたのである。
とはいえ、既に繰り返された質問だ。
ユリアヌスの返答も決まっている。
「僕は戦うために皇帝になったようなものだからね」
「おまえがか?」トゥルートは露骨に鼻で笑った。「失礼ですが、皇帝陛下様は戦場について、どの程度ご存じで?」
「とりあえず【ガリア戦記】を読んできた」ユリアヌスの心に興奮が甦る。「いや、あれは素晴らしかった。簡潔な表現、明晰な論理、まさに千年の名著だったね」
「……」
トゥルートは眉を顰めた。ちなみに【ガリア戦記】は千年どころか、二千年後まで読まれる事になる。が、トゥルートが聞きたいのはそういう事ではないらしい。
「……で、実戦経験は?」
「……」ユリアヌスは黙って目を逸らした。
「じゃあ、喧嘩は? なよなよしているけど、お前だって男だよな。一人前の男なら、喧嘩の一つや二つはした事があるよな?」
「…………昔、本屋に行ったら、柄の悪い人たちに囲まれて、金を寄こせと……」
「なるほど、恐喝に会ったと……で?」
「ボコボコにされて、泣いていたら兄さんが助けに来てくれて……」
「……そんなおまえが戦場で指揮を執るの? 正気なの?」
「…………だから、サルスティウス殿は君を僕の【衛士】にしたんだよ。多分」
現代的な感覚に直せば、新米少尉と先任軍曹といったところか。ただし、ユリアヌスは新米少尉よりもずっと酷い。新米少尉とは実戦経験がないだけで、士官学校で選別と教育を受けているものだ。座学は勿論、肉体的な訓練もまた徹底的にやらされたりするのが普通で、知識や体力の面で一定の期待はできるのだが……。
「それより君……」
そこでユリアヌスは言い淀んだ。ここで『君は女の子だよね?』と聞いたら、色々とまずい気がしてきたのだ。だから、慌てて言い直す。
「君……君の名前は?」
「トゥルート」
氏族名も家族名もない。只のトゥルートという事らしい。どう考えてもラテン名ではない。金髪白皙の容姿と併せて考えれば、やはりゲルマン系だろう。
ゲルマン人がローマ軍団にいる事は不思議ではない。
この軍団を見渡しただけでも、トゥルート以外のゲルマン系兵士は数え切れない。ゲルマン人は大柄で屈強、さらに馬術にも優れる傾向にあるので、昔から重宝されているのだ。そも【蛮人】や【蛮族】の定義とは、文字通り『言葉が通じない輩』だ。人種や民族ではない。仮にゲルマン出身でも、ローマ文明の価値観を受け容れ、法に則る事ができるのであれば、それは決して野蛮人ではない。
……もっとも、トゥルートはゲルマン男性平均よりは小柄だし、ローマ文明の価値観を受け容れているかも怪しいところがある。
ユリアヌスは慎重に質問を重ねた。
「じゃあ、出身は?」
その質問にトゥルートの顔に苛立ちが浮かんだが、一応は答えてくれた。
「コローニア(ケルン)」
「は? コ、【植民都市】?」ユリアヌスは首を傾げた。それは普通名詞であって、固有名詞ではない。「ええと、どこの【植民都市】?」
「コローニア・アグリッピナ」
「ああ、コローニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシスね」
ユリアヌスは勝手に捕捉した。
同時に、このトゥルートという少女が男装をし、軍人をやっている理由の一端も察した。
文明化や都市化は基本的に女性への『福祉』を強化する。これは世界中で見られる傾向だ。例えば、中央アジアの騎馬民族などは『(男女を問わず)馬に乗れない無能は死ね』だった。それが後世にイスラム化し、定住化すると『女は馬に乗らなくてもいい≒女が馬に乗るなんてはしたない』になってくる。
逆に言えば、文明や都市――洋の東西を問わず【中原】から離れれば、女性への『福祉』は激減する。女性だからと言って、力仕事を免れる事は出来ない。勿論、体格や筋力に差があるので、力仕事に占める男性の割合は大きい。しかし、女性でも頑強そうだったり、人手が足りなかったりすれば、容赦なく駆り出される。そして、辺境では人口そのものが少ない。必然、女性も力仕事に駆り出される。具体的には【中原】に近いローマと違って、男性のみで軍隊を構成する事は不可能だ。
実際、これからユリアヌスが戦う蛮族は、男女の区別なく戦場に立つらしい。一応、女性は兵站等の後方支援が多いものの、前線で切った張ったをする女性戦士も少なくないと聞く。
だから、トゥルートが辺境の植民都市の、しかも、野蛮人が多いゲルマン出身なら、少女の身で、馬に乗り、刃を振るっても違和感はない。
――あの女王ボウディッカもこんな感じだったのかな? 伝説では赤毛で巨乳だったらしいけれど……。いや、今考えるべきはそんな事ではないか。
問題は
――何故そんな『彼女』がローマ軍団にいるのか?
という点である。
ローマは良くも悪くも文明化されている。戦場に女性を連れていく事はない。ありえないと言えば、嘘になるが、あくまでも例外だ。軍人の妻帯すら、禁忌とされる。仮にも皇帝であるユリアヌスの衛士に、わざわざ少女を選ぶ必要はない。
――サルスティウス殿はこのトゥルートが少女だと知っているのか?
いや、少女でなくともこのトゥルートが皇帝の衛士に相応しいかは疑問である。別に衛士が一流の教養人である必要はないし、先に述べたようにユリアヌスを促成栽培するつもりなら、強引な性格の方がいいだろう。が、さすがに『【皇帝】? 何それ? おいしいの?』では、衛士としてまずいのではなかろうか?
――この場でトゥルート本人に聞いてみれば話が早くはある……が。
ユリアヌスは自重した。貴様は空気が読めないと散々言われてきた。ましてや、この沸点が低そうな少女が相手である。ここは手堅く地元ネタだ。そして、なるべく女性を立てるような話題で行こう。よし。
「いや、コローニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシスが出身かー、これは話が合いそうだなー。僕も、コローニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシスには前々から注目してんですよ。だって、その名の如く、あの【女皇】アグリッピナの出生地でしょう! 色々言われていますけれど、才女だったと思いますよ。夫の歴史家皇帝クラウディウスが、地味に優秀なせいで、相対的に評判落としてますけど。いやあ、コローニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシス、いいところですねぇ」
「……おまえは話を短くまとめる事が出来んのか?」
余談だが、後世『コローニア』以降は省略され、ドイツ語読みされて『ケルン』と呼ばれる事になる。
「コローニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシス――北緯五〇度にありながら、暖流偏西風のおかげで過ごしやすく、水道橋などの基幹インフラも整備された属州下ゲルマニア(現ドイツ)首都。最盛期には人口四万五千人を超えて、今は……」と、ユリアヌスは自分で語りながら、重要な事実を思い出した。「今は……あれ? ……コローニア・アグリッピナは今、たしか……」
「とっくに【蛮族】に占拠されているよ……!」
トゥルートは吐き捨てた。
***
皇帝ユリアヌスの評判は下火だった。
――何といっても、威厳がない!
まず小柄で華奢だ。ぱっと見、枯れ木を連想させる。茶色の双眸には明確な意思があるが、顔立ちが若いというより幼いので台無し。豊かな茶髪もぼさぼさ。生来の癖毛という以上に、まともに手入れをしていない。まさに貧相な小男と呼ぶに相応しい。
その上、身嗜みも粗末。皇帝の証たる紅の外套を纏ってはいるが、しばしば足を引っ掛けてすっ転ぶ。また「燃料節約! それに僕もガリアの寒さに慣れないと!」とか言って、暖炉に火を入れないで暮らしている。
当人は『下々の者にも親しみ易い皇帝』を気取っているのかもしれない。しかし、これではなめられるだけだ。上に立つ男は恨まれるのもまずいが、侮られるよりは恐れられた方がいい――そんなトゥルートの好みからすれば、最悪と言っていい。
なのに、やる気だけはあるらしく、散々空回りしていた。
例えば、書類仕事の最中に必要な資料が足りない事に気付くと、ユリアヌスはすぐに自分の足で探しに行ったりする。勿論、サルスティウスはすぐ諌めた。曰く、そんな事は奴隷にやらせればいい。王侯貴族の周りにいつも人が侍っているのは伊達や酔狂ではない。そういう時に職務を分担するためだ。資料探しは奴隷でもできる。資料を基づき決断を下すのは皇帝にしかできない。そして、皇帝の決断が遅れれば、負担は現場に圧し掛かる。だから、皇帝たるもの、雑務はすべて下々の者に任せ、重要な決断のみに集中する義務がある――と。
サルスティウスは懇切丁寧に説くので、ユリアヌスも一々頷いて反省し、態度を改める事を誓う。
しかし、トゥルートに言わせれば、
――そも、その程度の事がわからぬ奴が皇帝を何故やっている?
と苛立たざるを得ない。
勿論、書類仕事はトゥルートの担当外である。しかし、馴染みの会計係が『サルスティウス様が代行されていた頃は、仕事が十倍早かった』と愚痴っているのを聞くと、仕事を遅らせるユリアヌスに腹が立ちもする。
どうやら、ユリアヌスには『他人に言う前に、まず自分が動く』という癖が身についているらしい。何度サルスティウスが注意しても、結局ユリアヌスは自ら率先して行動してしまう。
すると、トゥルートも
――こいつ、どういう人生を歩んできた?
と首を捻る羽目になる。
トゥルートは無学だ。だから、皇帝やら副帝やらが実際のところ、何を意味するのかはよくわかっていない。
だが、それらが【お偉方】という事はわかり、【お偉方】は『自分が動く前に、まず他人に言う』ものと思っていた。今まで見てきた【お偉方】は皆その類だった。また、それはそれで合理的だったのだのだと、他ならぬユリアヌスが逆説で実証してくれた。
結局『他人へ権高に命令を出す』というのも一つの技能であり、その習得には経験が不可欠なのだ。実際、叩き上げの兵士が士官になった途端、空回りする光景を、トゥルートは何度か見てきた。
しかし、逆に言えば、これも経験の問題に過ぎない。出世をした現場上がりも、慣れれば、大概空回りしなくなる。
そして、いささか腹立たしいが、【お偉方】は幼い頃から『他人へ権高に命令を出す』事に慣れている。だから、ユリアヌスが【お偉方】であるならば、こんな空回りをするのは奇妙なのだが……。
――いずれにせよ、あの時、ちゃんと殺しておくべきだったか?
トゥルートは女だ。そして、その裸をユリアヌスは見た。だから、口封じに殺そうとした。わざわざ男装して、軍隊に紛れ込んだのに、正体がバレたら、追い出されるからである。
(ついでにせっかく見つけた温泉を独り占めできないのも困る。仲間内では風呂嫌いで通っているが、それは正体を隠すための演技である。本当は綺麗好きなのだ。だから、単独偵察中に見つけた温泉は貴重なのだ)
ところが、そのユリアヌスは皇帝であり、始末するのは簡単だが、その後が面倒臭かった。何故かユリアヌスもトゥルートが女だと公言しないので、無理に殺す必要もないのだが……。
しかし、ここまで出来の悪い皇帝だと、別の意味で殺したくなる。遠くで見ているだけならまだいい。が、トゥルートはユリアヌスの衛士で、その失態を間近で見続ける立場なのだ。
おまけに、そんなユリアヌスがとんでもない事を言い出すのである。
「サルスティウス殿、僕を襲った野蛮人探しは中止して下さい」
「は? いえ、しかし……」
「蛮族一人にいつまでも構うより、僕らは大局に立った行動をすべきです」
「大局……とは?」
「はい。コローニア・アグリッピナを奪還しに行きましょう」
こいつは皇帝になって半年も経っていないのに、トゥルートの故郷を取り戻すつもりらしい。