第十一話(A.D.357)軍神誕生
翌日――。
「今日、歩き方、変ですね?」
とシャハラザードが声をかけてきた。
「ああ、ちょっと下腹が痛くてな」
「生理軽い方なのでは?」
――こいつは意外と鈍いのか? 鈍い振りをしているのか?
トゥルートは勘ぐったものの、適当に誤魔化すことにした。
「……昨日はすまなかったな」
「……あなたが偽装投降し、敵指揮官を暗殺という手もあったのではありませんか?」
シャハラザードは謝罪を受け入れず、逆に意地が悪い事を言ってきた。別に意外でもないが、粘着質な娘だ。
「特にあなたはゲルマンです。極端な話、『女装』して、潜入すれば……」
「あたしも昨日、ユリアヌスに同じ事を言ったよ」
褥の上で――というところはトゥルートも隠す。
「だが、こっちの方が勝算は高い。それが【大将】としての『我が君』の判断だとさ」
そう、既に互いの陣形は整っていた。
ローマもゲルマンも、互いの殲滅を目的とした会戦を選択していたのだ。
***
敵軍兵数三万五千。予備兵力は多数。陣形は凸型魚鱗。騎兵を前に出し、歩兵が後に続くという編成。明らかに中央突破を狙っている。
自軍兵数一万三千。予備兵力は皆無。陣形は凹型鶴翼。左右両翼が騎兵、中央本陣が歩兵という編成。こちらは包囲殲滅を狙っている。
文字通り、互いに噛み合う陣形だ。わかりやすい構図とも言える。
それだけに後者には『勝てる理由がない』という不安があるはずだった。『兵数で劣る側が戦力分散してどうする?』という疑念があるはずだった。
しかし、兵士たちは黙々と配置についてくれた。
ユリアヌスは彼ら一人一人の顔を見渡す。
――今だけではない。
これまで何度もユリアヌスは危機に陥った。ユリアヌスはその度に混乱し、懊悩した。が、この兵士たちは決して軽挙妄動は起こさず、ユリアヌスの決定を待ち、その上でユリアヌスの命令に従ってくれたのだ。
――マルケルスやバルバティウスとは違う。
兵達の潜在的な士気は低くない。考えてみれば、当然だ。トゥルートも言っていた通りだ。彼らは地元を荒らされている。そして、彼らは元々民草である。土と共に生きている。農民だ。いざとなれば、東方へ逃げればいいと考えている高級官僚とは訳が違う。
家族を守りたい。故郷を取り戻したい。
その思いは人一倍なのだ。
だからこそ、コローニア奪還の時も、セノネス籠城の時も、このアルゲントラトゥム決戦においても、彼らは苦難の中で戦うのだ。
――彼らこそ、僕の宝であり、僕の礎だ。彼らのために、彼らを束ねる。それが僕の義務だ。
「ここに我らはカンネーを摸倣し、ザマを再現する……!」
ユリアヌスは差し出した右手を握りしめる。
「取り戻すんだ――僕達の《ローマの平和(パクス=ロマーナ)》を!」
あの時、アンミアヌスは、言った。『やはり彼らも我々から学んでいるのだ』と。
しかし、ユリアヌスなら、付け加える。『我々が彼らから学んでいるように』と。
本来、ローマは農業国であり、市民兵の軍隊である。自然、騎兵は弱い。
いや、弱かった。
だが、今は違う。それこそ敵であった騎馬民族をも受け容れ、その戦法技術を咀嚼吸収しているのだ。特に、今回両翼に配置された精鋭騎兵は、帝国の規律正しさと蛮族の勇猛さを兼ね備えた最強部隊といってもいい。
そして、それを率いるセヴェルスは文句なしの実力者である。
だから、ローマ両翼が綺麗に進軍していく。絵に描いたように美しい。理想的包囲展開だ。
逆に蛮族は単純愚直だった。三万五千で突撃してくる。故に恐ろしい。下手に小細工しないからこその強さだ。彼らは余計な事を考えない。故に戦力集中の原則へ忠実なのだ。
だから、蛮族軍には凸型魚鱗陣形しかない。
反面、帝国軍は変わらず凹型鶴翼陣形のままだ。
戦力分散の愚を、あえて犯したままだ。
しかし、それでも中央の歩兵部隊は微動だにしなかった。
分散した一万三千で、集中した三万五千の敵軍を受け止めたのだ。
天上から見下ろせば、荒れ狂う濁流を人の手で押し止めているかのようだろう。
ユリアヌスは叱咤激励し、兵士たちは奮戦敢闘し、そして、思う。
――僕達はできるかもしれない。
歴史の必然も、自然の摂理も、神の意志すらも、人の手で曲げられるかもしれない。
ユリアヌスは隠し持っていた十字架を左手で握りしめる。
「神よ。たとえ滅びが運命だとしても、僕らは抗うぞ……!」
***
――追い付けない!!
トゥルートは泣きたい気分だった。
***
当然ながら、一万三千(をさらに分散させた兵力)で、三万五千を受け止めるには無理がある。
だから、ユリアヌスは前線を駆け巡り、矢継ぎ早に指示を出し続けた。どこかの部隊に少しでも余裕ができれば、苦戦している部隊への救援に向かうように命令を出す。あるいはその逆、苦戦する部隊に、余裕がある部隊から兵士を回す命令を出す。
元々、万を超える兵士同士が激突した場合、全員が全員、戦闘に参加し続けるわけではない。どうしても最前線に辿りつけない『遊兵』ができる。三万五千の蛮族ならば、一度に最前線で戦える兵士は、せいぜい一万程度だったりする。
では、逆に一万三千の兵士の『遊兵率』を二割に抑えられれば?
一万三千の『非遊兵率』を八割にまで引き上げれば?
蛮族の実動兵力一万を超えられる!
……とはいえ、常識的に考えれば、これも机上の空論というべきだろう。
まず兵士が狂乱の戦場で、適切な配置に動き続けねばならない。そもそも、遊兵には消耗を抑え、休息を得て、回復を行う役割がある。これを削る事は兵士への負担を増やす事になる。
それこそ、一人で五人分戦い続ける覚悟がいる。
まして……、
指揮官は常に変化し続ける戦況の中、最短最速で最適な指示を出し続けねばならない。
人間業ではない。
だが、皇帝ユリアヌスはそれを成し遂げつつあった。
しかし、その結果、指示を出すために前線を駆け巡る皇帝に、筆頭衛士のトゥルートが追い付けないという奇天烈な現象が起きていたのだ。
***
「あいつは! 去年までは! ただ馬に乗るだけでも! おっかなびっくりだったんぞ!」
それが今ではテキパキと命令を放ちつつ、縦横無尽に戦場を駆け巡っている。
対するトゥルートはそんなユリアヌスを……、
「畜生っ! とうとう見失った……」
思わず、自嘲した。皇帝ユリアヌスの影は遥か遠くに去って行く。
――「トゥルート、君を【筆頭衛士】に任命します。決して僕の傍を離れぬよう」
一年前のあの命令をトゥルートは守れなかった。
――昨夜の取っ組み合い。ユリアヌスに花を持たせるために、あたしは手を抜いた。だが、全力でやりあったら、あたしは勝てたのか?
トゥルートの迷いに気付いたのか、馬が自ずと足を止める。
ところが、そんなトゥルートに敵の矢も届かない。ローマ歩兵は完璧に機能し、敵の攻撃を遮断していたからだ。
さすがに兵士には『戦場で棒立ち?』『こいつ、何やっているんだ?』と胡乱な目を向けてくる者もいた。だが、すぐさま『ん、皇帝陛下直属の衛士か?』『なら、特命か何かがあるのだろう』『俺たちは俺たちの義務を果たすのみ』という顔になって、前線へ向かう。
実際、トゥルートはただ棒立ちしているだけだったのに……。
それは組織への盲従ではない。システムへの信頼だ。
荒廃した世界しか知らないトゥルートには想像もつかない感覚だった。いや、戦場で背中を任せ合える相棒というのはわかる。しかし、そこにあったのは、顔を見た事がない相手でも、同じ社会の構成する仲間であれば、まずは協調すべきという行動原理であった。
――これがローマの力、文明の力、ユリアヌスの力……。
今なら、わかる。ゲルマンもトゥルートも野蛮人だ。野蛮人は勇猛ではある。個々の武では文明人に勝る。今回のように蛮族が精鋭ならば、尚の事。しかし、伍を組んだ兵士には劣る。そしてそれは万を超えた兵士同士でも同じなのだ。
今なら、わかる。ゲルマンの足並みは揃っていない。強者は敵を倒して前に進むが、弱者はそこへ追い付けない。足並みが乱れる。攻撃にアラができる。防御にムラが出来る。これではせっかく精強な戦士であっても、その遊兵率が高まり、実動率が低くなる。
ユリアヌスの下で、精密機械のように動き続けるローマ軍団に勝てるはずもない。
「ちょっと待ってよ。やっと知り合いに会えたんだから」
シャハラザードがそう言って駆け寄ってきた。
こいつ、戦闘中は何やっている?――と思ったが、それはトゥルートも同じである。結局、歯車になれない娘二人が出会ったということだ。
そして、その余裕がローマ陣営にはあった。既にローマは騎兵による両翼が包囲を閉じつつある。なのに、蛮族軍は中央歩兵すら突破できないのだ。
「ふん、これが教科書通りとやらなんだろ? ……ローマの勝ちだ」
「これが教科書通り? あなたって、本当に馬鹿ね!」
シャハラザードは日頃の淑美をかなぐり捨てていた。ペルシャもローマと同じ文明の産物である。その語り部であるシャハラザードは当然博識である。ところが、そんなシャハラザードから見てもこの戦捷は異様らしい。
「『包囲すれば、殲滅できる』って、兵法書とやらに書いてあるんだろう。そして、その通りローマは勝つ。文句なし。頭でっかちのユリアヌスらしい勝ち方だ」
「……あなたは彼の価値を理解していないわ。ああっ、こんなことなら、何が何でも抱かれておくべきだった」
トゥルートは『抱かれる』という言葉に頬が染まるのを自覚した。だが、シャハラザードはそれを見逃す。それ程、シャハラザードは興奮していた。
「いい事? 今、ローマは少数で多数を包囲殲滅しているのよ。教科書にはこう書いてあるわ――『ありえない。絶対失敗する』」
「はぁ? でも、神君ユリウス・カエサルはこのガリアで何度も『少数で多数を倒す』を成し遂げているんだろ?」
「あれは政治的事情から、カエサルが敵数を誇張して報告している場合がほとんどよ。無論、確かに『少数で多数を倒す』事に成功したと思われる例も幾つかあるわ。でも、そういう時、カエサルは包囲殲滅なんて狙っていない」
電撃的に敵の弱点を攻める事で、敵が数の優位を発揮させる前に、指揮系統を崩壊させ、敵全体を『敗走』に追い込んでいるだけだ。
これも容易くはない。カエサルの伝説的な指揮能力と天才的な戦術戦略の結果である。
だが、あくまでも『敗走』させているだけだ。『殲滅』しているわけではない。極言すれば、暗殺を部隊規模でやっているだけだ。ユリアヌスもコローニア奪還の時に同じ事をやっている。無茶ではあるが、無理ではない。
「五賢帝時代だって、この手の包囲殲滅を狙う時は敵よりも多くの――それこそ、当時絶頂を極めていたローマの兵站機能を全力稼働させ、敵に倍する兵数を用意したわ」
「……そりゃ、頭数は多い方がいいだろうけど……。そんな事をしてたら、今度は補給が追いつかなくなる危険があるだろ?」
「そうよ。でもね、包囲殲滅を狙う時っていうのは、その危険を冒してでも、兵数を確保する必要があるの」
「何で?」
「包囲が完成すれば、勝てる。でも、包囲が完成するまでの間、戦力を分散させる事になる。そこを各個撃破される虞がある。だから、東方では昔から『十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也』と言うでしょう!?」
「???」
「あー、あなたってば、『一、二、三、たくさん』の人だったわね。わたしが悪かったわ」
いや、さすがにそこまで――とトゥルートは言い返そうとした。しかし、シャハラザードは聞く耳持たずに説明を始める(こんなところはユリアヌスと五十歩百歩だ)。
「まず、味方が三人、敵方が二人の戦いを頭に浮かべて。で、敵味方共に一人当たりの強さは同じだと仮定。この時、味方三人が包囲に成功し、正面、右側面、左側面から、敵二人に一斉攻撃をかけたとする。すると味方は大勝利。これならわかるわね?」
「ああ」
「でも、味方が包囲網を完成させる前に、敵が正面の一人に二人がかりで集中攻撃を仕掛けてきたら? この場合、左右に展開した味方の援軍は間に合わないとしたら?」
「……味方は一人で敵が二人、やられてしまうな」
「その後、左右に分かれて一人孤立している味方に、同じ要領で二人がかりの集中攻撃をしかけたら?」
「今度も味方は一人で敵が二人、またやられてしまう」そこでトゥルートは気付く。「おい、待てよ。これ、順番はどうあれ、包囲しようとした側は必ず負けないか?」
「そう。包囲というのはそれが完成するまでは戦力の分散に他ならず、各個撃破の餌食になり易い。包囲が完成すれば、状況は逆転するけど、そこに至るまでは常に危険を伴うの」
……ユリアヌスがこの作戦を躊躇った理由がトゥルートにもようやくわかってきた。
「しかもこれは味方が三で、敵が二と、数では上回っていての話よ。それでも、包囲する側は危うい。だから、五賢帝時代でも必ず多めの兵力を用意して挑んだ。戦力を分散している時に集中攻撃されても、耐えられるように」
シャハラザードは興奮して言葉を重ねる。
「さっき彼は『カンネーを摸倣し、ザマを再現する』と叫んだけどね。とんでもない謙遜だわ。この戦術を考案したハンニバル・バルカやそれを普遍化したスピキオ・アフリカヌスも、最低でも敵と同数近い兵数が用意できなければ、こんな危うい賭けには挑まなかった。失敗するとわかっていたんでしょうね。だからこそ、ハンニバルもスピキオも名将と呼ばれている」
「……じゃあ、成功したユリアヌスは何なんだよ?」
「ハンニバルやスピキオ以上の軍神よ。……用兵に話を限れば、既にカエサルどころか、あのアレクサンドロスの領域にある。わたしの知る限り、少数で多数を、それも倍以上を包囲殲滅なんていう例は古今東西皆無よ。皇帝ユリアヌス陛下は人類史上初の偉業を成し遂げたの……!」
シャハラザードの比喩は正直よくわからなかった。具体例をあげられても、知識がなければ、意味不明だ。また、教養人らしく、形而上学に偏る傾向がある。
ただ、シャハラザード頬は紅潮していた。それは彼女にとっても、ユリアヌスが真に特別となった証だろう。
その時、ローマ軍団から、歓声が上がった。
前を見れば、敵軍が退いていく。こうなると蛮族は脆い。
ただ老兵が一人、戦陣の前で、重槍を構え、残っていた。
シャハラザードが嘲笑う。
「あははっ、あんな老兵を殿なんて! 本当にもう蛮族はおしまいね!」
「違う……あの重槍はクノドマルだ」
「え、クノドマルって、たしか……」
「アラマンニ部族の長、ゲルマン民族の総司令官だよ」
ローマで言えば、【皇帝】の地位にある老将だ。
そんな男が同胞を守るため、自ら盾となっているのだ。
「え、ちょっと待って? あなた何でそんな奴を知っているの?」
トゥルートは返答もせず、単騎で駆けた。
「姉としては、ここで一つ、弟にいいところを見せとかないとな!!」
祖名でもある【槍戦】の間合いに入り込んだトゥルートはよく通る高い――本来の女の声――で叫ぶ。
「アラマンニの長クノドマルよっ!」
ゲルマン語を使った甲斐があった。あるいは金髪単騎が幸いしたか……。
いずれにせよ、敵陣に動揺が走り、矢が止まる。
「我はゲイルスケグルの末娘、ゲルトルート! 主神オーディンの御名において、一騎討ち(アインツェルカンプ)を申し込むっ! 貴君が我が父母と弟妹の仇であるが故にっ!」
アラマンニの長クノドマルは驚愕しつつも疑念を呈する
「【槍乙女】だと? 何故、そのような娘子がローマ軍に?」
「我が真名を明かした故、お察し頂きたい。死せる戦士よ……!」
老将は自ら殿を務めていた。憎悪すべき敵手であるが、尊敬すべき勇者でもあった。
だからこそ、勝敗の行方を仄めしたのだ。
彼の方でも理解したらしい。しばらく、俯いた後、高らかに宣言する。
「いいだろう。アラマンニの長クノドマル……その決闘を受けよう。死神たる戦乙女よ……!」
実を言えば、愛槍は細い【擲槍】だった。その名の通り、本来は投げる槍であり、撃ち合う槍ではない。しかし、少女の細腕である事と、技が産み出す【力強さ(トゥルト)】に賭けて、初潮が来る前から使い続けていた。
しかし、これでクノドマルの重槍と撃ち合う訳にはいかない。
クノドマルは八つ裂きにしても足りぬ仇である。故にこそ、彼の武勇は熟知している。その重槍はかつての僭称皇帝マグネンティウスの実弟を打ち破った。その上でなお、率先垂範する事で、割拠志向の強いゲルマンという野蛮を纏め上げた。折紙付の強者である。
こんなか細い擲槍など、一合で圧し折られるに違いない。
その時、風が吹く。
金色の髪が解ける。棚引く様が女の形を成す。
復讐を誓い、男装を纏って以来、解けなかった髪が解けたのだ。摩訶不思議である。しかし、理由などどうでもよかった。
心臓が高鳴る。動悸が早まる。後から考えれば、それは二拍三拍の事に過ぎなかったはずだ。だが、その数拍が永遠に思えるほどに間延びする。
だから、見えるのだ。クノマドルが振り下ろす重槍の切っ先ですら、はっきりと。
感覚の拡張、認識の最適――ユリアヌス達が【魂の脱離】と呼ぶ恍惚が心身をしろしめす。あのプラトンは『パイドン』で、ソクラテスに「何かを純粋に見ようとするなら、肉体から離れて、魂そのものによって、ものそのものを見なければならない」と語らせた。
だから、見えるのだ。見えるはずない敵手の筋肉の躍動一つまで。その意図する先までも。
その先読みは反応というよりも【超反応】――未来予知と呼べる領域に到達する。
右手の槍を生贄に、左手の指先を鋭く揃える。
クノマドルは重槍にて、トゥルートの擲槍を圧し折った。
老将は笑う。クノマドルにすれば、理想の展開だったのだろう。少女の武装を打ち払ったのだから。
だが、少女の右手は囮だった。少女の左手は長く伸びる。
細腕が繰り出す、しかし、最適最速の貫手である。
左手は手刀となって、真の槍を成す。
老将の首を貫く!
そして、脊髄及び神経気道血管を纏めて握る。文字通り、相手の命を握り締めている。そう、ほんの少し指先に力を込めれば、憎むべき仇の命は握り潰せる。
「なるほど、ゲルトルート――あの時の娘か」
クノマドルはそう言った。
「……殺せ」
生死を委ねた上でこの発言だ。蛮族の長たる豪胆さを如実に示している。同時にそれは今の今まで、この男は弟と妹への蛮行を忘れていた証に他ならない。おそらくは似たような蛮行を数え切れぬ程、繰り返してきたのだろう。しかし、
「……断る」
「ふん。嬲って殺さねば、気が済まぬか?」
「違う。いや、嬲り殺したくはある」そこでトゥルートはラテン語に切り替えた。「しかし、今のあたしはゲイルスケグルの末娘ゲルトルートではない。ローマ皇帝ユリアヌス陛下の筆頭衛士トゥルートだ」
そして、トゥルートはユリアヌスが殺生を好まぬ事は知っている。
野蛮と、その象徴たるクノマドルやゲルトルートを嫌う事を知っているのだ。
こうして――。
アルゲントラトゥム会戦はローマの勝利に終わった。
ローマ側の死者は大隊長四名、兵士二百四十三名。
ゲルマン側の死者は約六千。とはいえ、これは戦場で確認できたものだけだ。敗走の中、ライン(レヌス)川で溺れ死んだ者も多いと思われる。ただ、これは確認のしようがなかった。
いずれにせよ、ローマ側一万三千、ゲルマン側三万五千以上で始まった事を考えれば、完勝といってもいい。
その上、敵将クノドマルをも捕虜としたのである。




