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第九話(A.D.357)決戦予兆

「右!」

 皇帝ユリアヌスの声で万を超える兵士が一斉に右を向いた。

「左!」

 皇帝ユリアヌスの声で万を超える兵士が一斉に左を向いた。

「解散!」

 皇帝ユリアヌスの声で万を超える兵士が整然と解散した。

 兵士達は訓練を終えた後、秩序正しく、持ち場に戻る――それを見て、ユリアヌスは(たず)ねた。

「セヴェルス、君の目から見て、彼らはどうだ?」

「強いげす」老将セヴェルスは断定した。「わしが敵なら戦う前に逃げ出すげす。皇帝陛下の命令に全員が全員従っているだけでも大したものでげすが、解散した時、押し合いへし合いにならなかった。その上、皆、足元が綺麗だ」

 セヴェルスの深言にユリアヌスも(うなず)いた。彼の言う通りだ。ユリアヌスも一斉行進などは誰にでもできると昔は思っていたが、実際は違う。単純な行進でも、大軍となると困難になる。それを克服するには訓練が欠かせない。また、解散した後、一万を超える兵士が誰一人衝突を起こさなかった。その一点でも錬度の高さがわかる。加えて、足元が綺麗という事は、装備の手入れを怠っていない証である。この兵士達は錬度だけでなく規律も優れている。

「トゥルート、君の目から見て、彼らはどうだ?」

「一対一なら勝てる」衛士トゥルートも断定した。「だが、束になられたら、手に負えない。特に伍(五人集団)を組まれたら、こっちが五人でも負ける」

 トゥルートの直言にもユリアヌスは(うなづ)いた。彼女の言う通りだ。トゥルートの槍働きには凄まじいものがある。いかにローマの精鋭といえども、個人戦ではトゥルートには(かな)わない。しかし、ローマの強さは錬度と規律――そこから生まれる集団戦法である。

「アンミアヌス、この水準にある兵士の総数は?」

「はっ、総勢一万三千です」

「ゲルマンに挑むに、多いとは言えないな」

「ですが、彼らは元首制時代の正規兵に匹敵するかと思われます」

「そうか……いや、その通りだろうな」

 アンミアヌスの評価は陰鬱なものを含んでいた。しかし、正鵠であろう。

 全盛期のローマ正規兵とは皆このような者たちばかりだったはずだ。第一、徴兵の必要すら、多くなかった。ローマ正規兵になる事は、ローマ市民にのみ許された特権であり、高貴な義務であったからだ。男子たるものは皆、ローマ正規兵になる事に憧れ、志願者に事欠かなかった。ローマ軍はその中から、文字通りの(つわもの)を選りすぐりさえすればよかった。

 自然、強かった。

 だが、今は違う。ローマは弱い。弱い者は憧れるに足りえないから、志願も少ない。すると、貧弱な者も兵とせねばならない。結果、ますます弱くなる。悪循環である。

 皮肉な事だが、トゥルートなどが軍中にいる事自体、ローマが弱くなった証だ。

 かつてのローマ軍は知力や視力、体力だけでなく、体格ですら標準以下ならば、落第としていた。トゥルートがいかに異能の強者でも、少女である以上、身体検査で落第だったはずだ。それが軍中に(もぐ)り込める。これは今のローマ軍が身体検査すら、まともに行わず徴兵している事を意味する。

 ――いや、それどころか、嫌がる者を捕え、無理矢理兵士することもあるだろう。

 これで強かったら、奇跡だ。

 当然そんなはずもなく、今のローマ軍は弱い。肉体で劣っている上に、士気も低い。装備や兵站、制度や戦術で補うにも限度がある。ユリアヌスの初陣が大敗に終わった第一の理由は、司令たるユリアヌス自身の無能だ。が、第二の理由としては、兵士が弱く、戦う前に逃げ出す(やから)も多かったからだろう。

 ――意欲のない者を戦場に出せば、当然か……。

 しかし、この一万三千はあの二万とは違う。初陣のようにユリアヌスが震えて動けずとも、彼らは自ら、勇敢に戦い、敵兵を追い散らす。そう確信できる精鋭だ。

 ――ならば、『無駄飯食らい』は『足手纏い』だな。

 何しろ、今度の攻撃目標はアルゲントラトゥム(現ストラスブール)である。

 これは今ローマを侵食しつつあるゲルマンの根拠地だ。つまり、敵領を延々と突き進んで、中枢を撃破する事になる。やたらと兵士を増やしても、食料の減りが早くなるだけだ。

 ――かつてのユリウス・カエサルが滅多に軍団兵を補充しなかったのも同じ理由か?

 信頼の置けない兵士を前線に出し、補給を難しくするぐらいなら、その人手は兵站の強化に回す方がいい。敵地で戦う時は特にそうだ。少なくとも、ユリアヌスはそう考えた。少数だが、精鋭の一万三千を戦闘に集中させるため、残りの兵力は後方支援に注力させるのだ。

 ――……それに正帝への配慮も必要だ。

 馬鹿馬鹿しいが、ユリアヌスはそういう事も考えねばならない。ユリアヌスはあくまでも『副』帝なのだ。戦力の出し惜しみはよくないが、出し過ぎても正帝の面目を(そこ)なう。仮に正帝コンスタンティウス二世当人がわかってくれても、周囲が(あお)るだろう。

 だから、今回のユリアヌスは裏方に相応しい戦力で行くべきだ。

 ユリアヌスは長い黙考の末、結論を導く。

「よし、我々はこの一万三千で挑む。正帝陛下が派遣された【将軍(マギステル・ミリトゥム)】バルバティウス殿は三万を率いるという。合わせて、味方は四万三千。報告によれば、敵兵はおよそ三万五千。これなら勝てる」

「「「御意!」」」

 セヴェルス、トゥルート、アンミアヌスが一斉に(うなづ)く。

「…………え? 本当にいいの?」

 ユリアヌスは自分で不安を口にした。この場にサルスティウスはいない。バルバティウス将軍との連携のため、東に向かっているのだ。そして、そのサルスティウスはこのように頷く事などなかった。ユリアヌスの大まかな方針は尊重しても、必ず瑕疵(かし)を指摘し、そこを修繕する進言をする。だが、この三人は賛同のみを述べた。

 しかし、アンミアヌスはあえて言う。

「陛下。失礼ながら、陛下が私を甘言多き佞臣と疑っておられるのは承知しています」

「……」

 あ、バレてた?――と返す訳も行かず、ユリアヌスは黙り込んだ。

「それでなくとも、私はサルスティウス様の半分も生きておらぬ若輩。信頼できぬのも当然。しかし、それでもなお言わせてもらいます」

 アンミアヌスは語気を強くした。今や、ユリアヌスの下にはサルスティウスをも上回る軍歴の主セヴェルスがいる。内政ならばともかく軍事において、サルスティウスを頼る必要はない。むしろそれはサルスティウスへの依存であり、甘えだという。

「そもサルスティウス様がユリアヌス陛下の軍略に一々口出ししてきたのは、ひとえに陛下がド素人であったが故。陛下があまりにアッパラパーであったが故です」

 ……とりあえず、ユリアヌスはアンミアヌスへの佞臣という印象を改めた。

「実戦経験は絶無。社会経験も皆無に等しい。幽閉されていた事情を加味してなお、ヘタレでオタクで引きこもり。……失礼ながら、ユリアヌス様ならば、こんな青年に運命を委ねようとなさいますか?」

「い、いや……」

 ユリアヌスは泣きたくなってきた。

 しかし、アンミアヌスは大人だった。彼はユリアヌスとは同世代だが、就労経験がある男はやはり違う。落として、上げる。それをわかっていた。清々しい声で言う。

「ですが、今は違います」

「今のは熟慮の上の発言だったろ? 日頃の饒舌がなかった。無駄口が少ないのは、いい男の証だぜ」

「そして、いい指揮官でげす」

 アンミアヌスに続いて、トゥルート、セヴェルスが言葉を繋げた。

 これもまた甘言だ。ユリアヌスのどこか冷めた部分が告げる。

 だがそれでも、ユリアヌスは別の意味で泣きたくなった。

 ――『幸福はその人が真の仕事をするところにある』!!

 無職時代、幽閉されていた事は辛かった。殺意を向けられていた事も辛かった。しかし、今思えば、誰にも必要とされなかった事こそが苦しかったのだ。実兄ガルスや義姉エウセビアはよくしてくれたが、それは身内への親愛である。勿論それはかけがえのないものだ。

 しかし、今はこうして社会に出て、他者に認められている。

「よ、よーし。今回は合戦ではなく、会戦となる。すす、すなわち、敵戦力の撃退ではなく、殲滅を目的とする。み、皆、励むようにねっ」

 ユリアヌスは感涙に咽ぶのを誤魔化すため、必死に皇帝としての言葉を吐いた。


 ……もっとも、これがユリアヌスの甘さであったのだが……。


   ***


「【将軍(マギステル・ミリトゥム)】バルバティウスが来ていないっ?」

 ユリアヌスは思わず叫んでしまった。

 ゲルマンの根拠地アルゲントラトゥム(現ストラスブール)まであと三日。そんなところで、シャハラザードから驚きの報告を受けたのだ。

「ええと、バルバティウス将軍はメディオラヌム(現ミラノ)を出発した後、アルプスを越え、バリシア近くでライン(レヌス)川架橋に入ったのですが……」

 シャハラザードによる報告内容は妥当だった。……そこまでは。

「数日待機した後、バルバティウス将軍の命令で引き返したそうです」

「はああああああ? 何でだよっ?」

「いや、何でと申されましても……」

 わたしはバルバティウス将軍ではないのでわかりませんよ。シャハラザードはそんな困った顔をした。

 ユリアヌスは「ああ、すまない」と謝った。シャハラザードにはその技能を活かし、偵察や間諜をやってもらっている。そして、その報告に主観を交えないのは、むしろ任務に忠実な証だろう。

 情報をもとに判断するのはユリアヌスの仕事である。

「それ、何か事情はなかった? 例えば、ゲルマンが他の地点を攻撃してきたとか……」

「ええ、付近を略奪するゲルマンは多かったようです」

「なるほど、バルバティウス将軍はそれを喰いとめるべく戦い、足止めを食らった訳だ。いや、それはむしろ(ほまれ)というべきだね。軍人たる者、市民の安全を第一に……」

「いえ、逆です。バルバティウス将軍は徹底した無視を貫きました」

「……それ、何か事情があるんだよね? だって、実際に市民は略奪されていたわけでしょ? 三万の兵を持ちながら、目の前で市民を見捨てるなんて……」

「……バルバティウス配下の兵士にも同じ意見はあったかと」

 シャハラザードはそこで初めて主観を交えた。さらにバルバティウスへの敬称も捨てていた。理由はわかる。バルバティウスの態度はあの前騎兵長官マルケルスと似ているからだ。

 背筋にひやりとしたものが流れる。

 勿論、今のユリアヌスは一万を超える精鋭に囲まれている。しかし、敵中孤立という点ではセノネスの時と同じだ。そして、セノネスの時と違い、盾となる城壁はない。

「……他の偵察の報告を待つよ」

「はい。それがよろしいかと。わたし一人では情報収集にも自ずと偏りが出ますから」

 まだ、シャハラザードの報告が間違っている可能性もある。矛盾する報告がない以上、淡い期待かもしれない。しかし、可能性は……

「サルスティウス様からの書簡です!」

 その時、アンミアヌスが駆け寄ってきた。ユリアヌスはすぐに受け取る。

 前述の通り、サルスティウスは問題の将軍バルバティウスの所にいるからだ。

 即座に開封すると、その内容は以下の通りであった。


 ――「バルバティウスはマルケルスと同類」


 ユリアヌスは思わず呟く。

「……急いで撤退……」

「……できるのですか?」

 アンミアヌスが小声で尋ねてきた。ユリアヌスは朦朧としたまま答える。

「この一万三千は精鋭だ。最悪、追撃を(かわ)しつつの敵中突破になるけど、強行軍も不可能では……」

「背後の市民は?」

 シャハラザードが冷たい声で指摘した。そんな彼女をトゥルートが何故か睨みつける。

 だが、指摘は正しかった。初陣の時のドゥロコルトルムと同じだ。この精鋭一万三千の送り出すために、ガリア全土へ負担をかけているのだ。ここでユリアヌスが退けば、間違いなく、ゲルマンは蹂躙を始める。そして、ガリアの市民に(あらが)う力は……。

「ううああああああああっっっっ!!」

 ユリアヌスは頭を抱え、叫び喚いた。

「こんなのどうしろっていうんだよぉぉぉぉぉっ?!」

 しかし、忠臣に恵まれていた。アンミアヌスは周囲に「人払いを。それから緘口令(かんこうれい)だ。流言飛語があれば、その場で斬れ。責任はすべてこの私がとる」と指示を始める。

 そして、トゥルートは勿論、シャハラザードもそれ以上何も言わない。

 彼女たちも本当は不安なはずだ。それでも、黙っていてくれた。

 だから、ユリアヌスは一人子供のように(うずくま)った後、泣き声で告げる。


「……時間をくれ。明日の正午には結論を出す」


 決断が遅れる(ごと)に犠牲が増える。しかし、決断を誤れば、さらに犠牲が増える。

 ユリアヌスは兵士と市民の犠牲と引き換えに、熟慮の時間を求めたのだった。


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