夢魔の酒場
里の中に入ったミュカは、耳まで赤く染めて俯いていた。どうやら、勘違いで焦って騒いだのが相当恥ずかしかったらしい。
「……まさか郵便配達だなんて」
「思わないよな、うん」
小人族のチッタは、名無しの里で郵便配達をしている男である。従魔であるオオワシの足にぶら下がり、里の内外を飛び回って手紙や小包を届けるのが仕事だ。
その様子を「子どもが鳥に拐われている」と勘違いして騒いでしまったミュカは、ボンッと音が聞こえそうなほど顔を真っ赤にしていた。
「大丈夫だよミュカっち。マスターなんて、最初はオオワシを撃ち落としそうになったんだよぅ」
「え、えぇっ!?」
「ギリギリ銃の射程外で良かったよな」
「名無しの里あるあるだよねぇ」
初めて里を訪れた際に、チッタとオオワシを見て助けようとする者は少なくない。
オオワシの方も慣れたものである。弓矢、投槍、魔術、魔道具。様々な種類の攻撃をなんなく捌きながら、悠然と空を飛び去るのだ。
その後、焦って駆け込んだ酒場で種明かしをされ、皆の酒の肴になるところまでがお決まりのパターンであった。
「ミュカが焦ってた様子は、ボルグあたりから里中に広まるんだろうな」
「うぅ……意地悪です……」
「通過儀礼みたいなもんだ。あまり気にするな」
バイクを手で押しながら、三人は里を進む。
草木の間を縫うように切り開かれた道を歩いていると、小川や水車小屋の音が耳に響いた。吹き抜ける冬の風はまだ冷たいが、人々の暮らす匂いは妙に心地いい。
前世での和風建築にも似た木造家屋。数人の子どもたちが遊び回る声。里の奥には温泉も湧いていて、もくもくと湯けむりが上がっている。
「なんだかホッとする場所ですね」
「あぁ。みんな好き勝手暮らしてるだけなのにな、ここは不思議と居心地がいいんだ」
「うんうん。私もこの里は好きだよぅ」
道中、木に生っているキンカンの実を見つけた。これはひと口サイズの柑橘類で、皮や種ごと食べることができるお手軽フルーツだ。
このあたりの果実は気が向いたら誰でも食べて良い決まりである。トランはなんとはなしに手に一粒とって……ふと、背中の方から視線を感じた。
「……ん?」
見れば、ミュカの視線はトランの持ったキンカンに注がれている。右に左にと手を動かすと、ミュカも首を振ってそれに追従した。
「……ミュカ、食べ――」
「いいんですか? ありがとうございます!」
「あ、あぁ」
前のめりにコクコクと頷いたミュカは、目をキラキラと輝かせて口を開き、綺麗に磨かれた鋭い牙をのぞかせた。
その口へ、キンカンの実を放り込む。
モグモグと咀嚼して数瞬。少し固まったあとで、ミュカの顔はトロトロに溶けた。実に幸せそうな顔だ。
「……そんなに美味いか?」
「マスターあのね。ミュカっちは柑橘類が大好きなんだよ。食材を買うときは、ミカンとかを多めに買い込んだ方がいいかも」
「へぇ。なら、庭に何かの木でも植えようか」
その言葉に、ミュカの肩がピクリと跳ねる。平静を装っているようだが、口元がニマニマと緩んでいるのがわかる。相当嬉しいようだ。
(……俺も一粒食べようか)
そう思いキンカンを採取する。
すると何を思ったのか、ミュカは目をキラキラと輝かせ、再び大きな口を開けた。まるで餌を待つ雛鳥のようだ。
「……あんまり食べ過ぎるなよ」
トランは苦笑いを浮かべながら、彼女の口にキンカンの実を放り込み――。
「ねぇねぇミュカっち。マスターとイチャイチャしててもいいけど、子どもたちが見てるよ?」
「ふぁっ!?」
「ミュカ、俺の指を食べてるんだけど」
「あわわわわわ……」
見れば、木の陰からひょこっと顔を出した里の子どもたちが、こちらを見ながらヒソヒソと耳打ちしていた。
トランはなんだか気恥ずかしくなり、少し早足になって小道を進んでいくのだった。
やがて、木造の大きな建物が見えてきた。
ここは里の中心にある「酒場」なのだが、単に酒を飲む場というわけではない。物や情報の売り買いが行われている、里の人々の交流の中心地だ。
扉を開けると、酒の香りが鼻を刺激する。
飲んだくれの鉤鼻族、ステージで歌う双頭族、従業員の尻を撫でる触手族……昼前だというのに、皆すっかり出来上がっている様子だ。
「あら、トランちゃん。いらっしゃい」
話しかけてきたのは、魅惑的な女性だった。
滑らかなブドウ色の長髪。凹凸の激しいボディラインと、それを惜しげもなく晒すようなタイトなドレス。そして、艶かしく揺れる槍のような尻尾。
夢魔族のリュイーダは酒場のオーナーであり、この名無しの里のまとめ役でもあった。
この酒場の従業員は全員夢魔族だ。
彼女らは女性のみの種族で、みな妖艶な見た目をしている。定期的に男の夢――ざっくり言えば、性欲を喰らう種族である。
と言っても、基本的には精神魔術で淫らな夢を見せて喰らうだけなので、繁華街の娼婦などとは全く違った存在なのだが。
夢魔族の夢喰いは娯楽の少ない里でも人気のサービスだ。ちなみに、トランは恥ずかしさの方が勝ってしまい、そちらは未体験である。
「リュイーダ。依頼された魔道具は全て修理が終わった。いつものように買い物を依頼したいのと、それから……住人が増えたから、挨拶にな」
「あらあら……ふふ、可愛らしいお嬢さんね」
リュイーダはトランの背後に目を向ける。
ミュカは先ほどから口をポカンと開けていた。
夢魔族を見るのは初めてなのか、なぜか自分の両胸を押さえ、リュイーダの谷間をじぃっと凝視していて……周囲の視線に気がつくと、慌てたように佇まいを直した。
「ミ、ミュカと申しましゅ」
「噛んだわね」
「失礼しました。わたくしはミュカと申します。トランさんの妻として一緒に暮らすことになったので、挨拶に参りました。よろしくお願いします」
「…………へぇ。よろしくね」
リュイーダは目の奥を怪しげに光らせる。
楽しそうな顔で口の端をぺろりと舐めると、槍のような尻尾をビクッと震わせた。まるでそう、湧き上がる興奮を抑えきれないかのように……。
なんだか嫌な予感がする。
トランがそう思っているそばから、彼女は絡みつくような仕草でミュカに近づくと、その顎をクイッと持ち上げた。
「うふふふ、いい修羅場の匂いがするわ」
「しゅら……? え、えっと」
「それはそうと、ミュカちゃんは吸血族よね。たしかワインを飲むのだったかしら。今度あなた用にたくさん仕入れておくわね」
「ありがとうございます、助かります」
いつの間にか、酒場の皆が興味深げにミュカを見ていた。中でも、従業員たちはリュイーダと同様に目を輝かせている。
……もう嫌な予感しかしない。
「うふふ。夢魔族は米酒を飲んで夢喰い衝動をある程度抑えているの。吸血族の吸血衝動も似たようなものだと聞いているけれど」
「はい。ワインを飲むと衝動が緩和されます。今はまだ実家から持ってきた分がありますが……今後、購入できるようになれば嬉しいです」
二人がそんな会話をしている時だった。
ドタドタドタと荒々しい足音がして、酒場の扉が乱暴に開かれた。
入ってきたのは、リュイーダによく似た小柄な女の子だ。空色の髪をツインテールにして、肩で息をしながら酒場中を舐め回すように睨んている。
十歳になるリュイーダの姪、カチュアだ。
彼女はトランを見つけると、一直線にツカツカと近づいてくる。尖った尻尾をギュンギュンと振り回し、頬をパンパンに膨らませていた。
「ちょっとトラン兄! 嫁ってなに!? この前まで結婚する気はないとか言ってたのに! あれは何だったのよ! バカ! 大嘘つき! 唐変木!」
修羅場って、もしかしてコレか……?
リュイーダを見れば、彼女はクスクスと笑いを漏らしている。トランは額に手を当てながら、面倒くさいことになってきた、と小さくボヤいた。