最後の拠り所
ブライアス王国の炎。
そう呼ばれた吸血族の魔術師は、巧みな炎の魔術を使って建国王を支えたと言われている。
その末裔がミュカの生まれたアーヴィング家であり、王国に四つしかない金級貴族家のひとつだった。
「――母や兄たちはみな細耳族でしたが、わたくしは父の種族を受け継いで吸血族として生を受けました」
吸血族が希少種族と呼ばれるのは、単純に子孫を残しづらいためだ。
そのため、当主は多くの妾を囲い、吸血族が生まれれば母体を問わず正式な子として迎え入れるのが習わしだった。
物心をついたときには、既に厳しい教育が始まっていた。
年齢に不相応な量の勉強、複雑な礼儀作法。唯一の心の支えは、離れに住む母や兄たちと過ごす時間だけであったが、それも月に数度のこと。
そんな生活をしていたある日、息を殺して涙をポロポロと零す彼女の前に、父親であるアーヴィング家の当主が現れた。
『我が娘、ミュカよ』
『……お父様』
『念のため言っておくがな。今は辛いかもしれぬが、お前の努力が周囲から認められるほど、母や実兄達の待遇は良くなるのだぞ』
『えっ……』
『一番上の兄は、たしか騎士になりたいと言っておるそうだな。夢が叶うかどうかは……お前次第だ』
それを聞いて、ミュカは泣くのをやめた。
歯を食いしばって心を閉ざし、ひたすら実直に、やるべきことを頑張ることにしたのだ。
彼女はまだ知らなかったが、この頃には既に第三王子との婚約が決まっていたらしい。アーヴィング家としても、教育に手を抜くわけにはいかなかったのだろう。
事件が起きたのは七歳の時だった。
貴族学校では魔術の授業があるため、入学前には神殿で魔力検査がおこなわれる。
というのも、体内に取り込んだマナは人それぞれ違った特性を纏って「魔力」となる。扱える魔術もこの魔力特性によって変わってくるため、事前に調べておく必要があるのだ。
『さあミュカよ。その石を握るのだ』
『はい、お父様』
ミュカは魔力感応石を握り、教えられた通りに魔力を込めた。
炎に特化したアーヴィング家の子であれば、石はだんだんと白熱していき強い光を放つだろう。誰もがそう疑っていなかったのだが。
『魔力感応石が……凍っています』
検査官の言葉に、場の空気が固まった。
魔力特性には個人差もあるが、血筋が大いに影響する。少なくとも、親子で真逆の性質を持つ可能性は非常に低いものなのだ。
つまり、炎の家に氷の子が産まれることは、明らかに異常事態であった。
『……不義の子か』
誰かの呟きが、やけに大きく響いた。
ミュカの母親が浮気をしていた証拠はない。だが閉鎖的な貴族社会社の中で、下世話な噂話は瞬く間に広まっていった。
この手のスキャンダルはアーヴィング家の名に傷をつける。当主の判断により、彼女はそれ以降もアーヴィング家の子供であり続けた。
『クスクスクス……あれが例の』
『一族の者でもないのに厚かましいわ』
『本当の父親は誰なのかしら』
それでもミュカは母のことを信じていたが、周囲からの嘲笑はずっと続いた。
やがて、体調を崩した母親は王都を離れ、辺境にある領地で療養することになる。ミュカ自身は家で腫れ物のように扱われ、貴族学校でも孤立した。話し相手といえば、専属の従者やペットの大コウモリくらいであった。
時が経ち十三歳になった彼女は、学校の中庭で婚約者と対峙していた。
『リシャルト殿下。お遊びも程々にしていただかないと、外聞も悪く――』
そう話す先には、女生徒と肩を抱きあう第三王子の姿があった。昼間の学校で堂々と、だ。
王子リシャルトは整った容姿をしていた。
サラサラの金髪。シュッとした長いエルフ耳に、誰もが見惚れる甘い顔。第二婦人や妾を希望する女性は後を立たず、平民や使用人との浮いた話も少なくなかった。
出会った当初は、ミュカへの配慮も建前程度にはあったのだが……。ちょうど女性の体を知った頃からだろうか、彼はミュカのことを鬱陶しそうに遠ざけるようになっていた。
『聞いているのですか、リシャルト殿下』
『ククク……なんだ、嫉妬か?』
『度を過ぎた女遊びをたしなめるのも婚約者の役目です。多少なら構いませんが、こうも見境がないと他国につけ入る隙を与えますし――』
『じゃあさ』
リシャルトはミュカに近寄ると、手首をグッと掴んだ。
『お前が抱かれろよ』
『婚前交渉はお断りします』
『ちっ……』
吸血族の筋力の前に、魔術特化の細耳族では対応しきれない。ミュカは一瞬で王子を振り払うと、真正面から彼を睨みつけた。
リシャルトは下を向き、小さく呟いた。
『――のくせに』
『今、なんと?』
『売女の娘のくせに……!』
その言葉に、ミュカは少なからず衝撃を受けた。
貴族社会での彼女への陰口は今もなお続いていた。しかし、公式には浮気など事実無根であるとされていて、彼女はアーヴィング家の子として扱われているのだ。
これまでのリシャルトは、腹でどう思っていたにせよ、この噂を口に出すことは決してなかった。だからこそ他の者も、ミュカに表立って非難を浴びせることはなかったのだ。
……だというのに。
『殿下は本当に変わってしまわれたのですね』
ミュカは失望感とともに、リシャルトのもとを去った。学校で陰湿な嫌がらせが始まるのに、そう時間はかからなかった。
十四歳になったミュカが貴族学校に行かなくなって、一ヶ月ほどが経った頃。
父の執務室に呼び出された彼女は、王子との婚約が解消されたことを告げられた。聞けば、リシャルトが国王陛下に直談判したそうだ。
『というわけだ。これで第三王子殿下とお前は何の関係もなくなる』
『承知いたしました』
『不服であれば申し立てても良い。あまりにも一方的なことだ。抗議の余地も残っているが――』
『いえ、不要です。アーヴィング家の顔に泥を塗ってしまうのは、申し訳ありませんが……』
彼女は戸惑いながらも、心が軽くなるのを感じていた。心の奥底ではあんな王子との結婚など望んでいない。そんな本音に、この時になってようやく気がついたのだ。
『ふむ……。まぁ、我がアーヴィング家にとっては、さほど損はないがな』
当主は愉しそうに口の端を歪め、葉巻の煙を吐き出す。
リシャルトの女遊びが激しいのは有名で、意外にも今回の婚約解消に関してアーヴィング家の責を問う声は少ないらしい。むしろ同情的な意見も多いのだとか。
ただ、それはそれとして。
『なぁミュカよ。お前は出来損ないの娘だ』
葉巻を灰皿に押し付けながら、当主は淡々と話を進める。
『お前の母の不義については、今さらどうでも良いだろう。王家も公式に無実だと認めている』
『…………はい』
『だがな。炎の魔術を使うこともできず、王族との縁もなくなり、次の縁談にも期待できないお前は……アーヴィング家にとっては無価値な子だ。それは分かっているな』
アーヴィング家は、王家を支える炎の象徴。
これまでも、氷の魔力を持つミュカを本家の子として認めることに、親族や寄子からは疑問の声が上がっていた。
きっともう、この家にはいられない。
『最後の確認だ。婚約が無くなれば、今後お前をこの家に置いておくことはできない。それが分かっていてなお、殿下にすがりつく気はないのだな』
『はい。あの方の隣にいるくらいなら、わたくしは……婚約者に捨てられた中古女として、独身のまま野垂れ死にする方を選びます』
ミュカは自分の意思をはっきりと固めた。
世間知らずの自分はきっと、市井に出て生きていくことなどできないだろう。死ぬ間際には間違いなく後悔することになる。だとしても、あの王子の妻になることだけは絶対に嫌だと。
当主は深くため息をついたあと、懐から一通の書簡を取り出した。
『当主としての情けだ。寄子の銅級貴族に、有能だが出世欲のない独身の男がいる。この者にお前を与えることにした。せいぜい媚を売って生き延びろ』
そうして手渡してきた書簡の宛名書きには、見知った名が記されていた。貴族社会でも度々話題に上がる天才魔道具職人。
――トラン・ブロン・デジタライズ。
それは彼女に最後に残された、たったひとつの拠り所だった。





