事件の日
人々が寝静まり、あたりがすっかり夜闇に包まれた頃だった。宿泊所の屋上に出たトランは、すぐ隣に建つ中央塔を見上げた。
塔の窓からポツポツと漏れ出る光。それ見るに、おそらくまだ何人かは働いていて、それぞれの仕事に精を出しているのだろう。
一方で、トランのいる屋上に人影はなかった。昼間の雨の影響か、夜風はすっかり冷えきっている。トランはブルリと震え、腰の魔導ポーチからブランケットを取り出して肩に掛けた。
(俺もそろそろ、前に進まなきゃいけないよな)
手のひらに息を吐きかけながら、トランはその場に腰を下ろし、ぼんやりと塔を見る。
過去のことは忘れられずとも、切り替えて先に進むべきである。頭ではそう分かっているつもりだったが、なぜか気持ちが付いて来なかった。どうしたものかと、トランはしばらく物思いに耽る。
そんな時であった。
「……トランさん。眠れないのですか?」
そんな声に振り返ると、こちらに歩いてきたのは寝間着姿のミュカであった。寒さには比較的強いと言っていた彼女だが、こんな場所に薄着でいては体が冷えてしまうだろう。
「ミュカ……。寒くないか?」
「寒いです。だから、その中に入れてください」
彼女は小走りで近づいてくると、トランの前に座り込み、無防備な背中を預けてきた。トランは慌ててブランケットを掛けなおし、彼女の体を両腕ですっぽりと包み込む。
「トランさん」
「ん?」
「……暖かいですよ」
少し照れくさそうにクスリと笑うミュカ。
トランは半ば無意識に彼女をキュッと抱きしめながら、コホンと咳払いをして視線を彷徨わせる。腕の中からは心地良い暖かさが伝わってきた。
「ところでトランさん。ルルゥ師匠は?」
「あぁ……なんかギルド長のところの魔導人形と親交を深めるとか言ってたな。塔の最上階に灯りが点いてるから、まだ何かやってるんだろう」
そう言うと、ミュカは何やら納得したように頷いた。
「なるほど、納得しました。昼間に作っていたメモはそのためだったのですね」
「メモ?」
「マスター自慢話一覧、らしいです。トランさんの良いところをリストアップして、誰かと競い合うのだと仰ってましたが」
「……それは初耳だな」
トランが塔を見上げると、ミュカも追従する。
頬を撫でる風は相変わらず冷たいが、二人でこうしている間は不思議と気にならなかった。
「大きいですね……」
「ん?」
「あの塔」
「あぁ」
気が向くままにポツリポツリと話をして、また黙り込む。無言の時間は長いが、それは決して嫌な沈黙ではなかった。
雲の隙間には星が瞬いている。
トランの頭に様々な考えが浮かんでは消えた。
辺境に引き篭もってから、長い時間が過ぎた。過去のことには区切りをつけて、そろそろ前に進むべき時が来ているのかもしれない。
もしミュカの幸せを考えるのならば、魔道具職人として再び王都で働き始める、というのも悪くない選択なのだろう。
「こんな風に、ただ腐って立ち止まってるべきじゃないんだよな……。それは分かってるんだ」
これまで溜め込んだ技術は、未来のために使うべきだと思う。魔道具職人として働いて社会の役に立つことこそが、傷つけてしまった人たちへの贖罪なのだという意見もあるだろうが……。
それでも。
『お前のせいだ……この人が死んだのは、全部お前の……お前のせいだッ! 絶対に許さないからな。死ぬまで恨んでやる、呪ってやる……。返してよ。この人を返してよッ! なぁ、今すぐ返せッ!』
記憶の中で泣き叫ぶ女性の姿が、トランの体から力を奪う。
「トランさん……」
「ん?」
「辺境に……王都での用事が終わったら、魔道具工房に帰りましょうね。ルルゥ師匠と三人で、のんびりしましょう」
ミュカは振り返り、潤んだ瞳を向けてくる。
変化しなければと思っていたトランは、その言葉に自分でも意外なほど動揺していた。
そんなトランに向かって、彼女は畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
「最近のトランさんは、なんだか焦っているように見えてしまいます……。わたくしのために、ご無理をなさっていませんか?」
彼女はそう言って右手を伸ばし、トランの頬にそっと触れる。そして、心配そうに眉を寄せると、トランの胸にその顔を埋めた。
心臓がトクンと跳ねる。
トランが動揺を隠すように滑らかな銀髪をそっと撫でると、彼女は照れくさそうに身を捩りながら頭を擦り付けてきた。
「……昔の事を忘れられないのは、トランさんが優しいから。その優しさこそが、わたくしを救ってくださっているものです……。トランさんは知らないと思いますが、わたくしは貴方と出会えたことで、本当に……」
ミュカは小さく顔を上げ、冷えた手でトランの両頬を包み込んだ。彼女の整った顔が、至近距離からトランの目を覗き込む。
「ミュカ……?」
「……ゆっくりで良いと思うのです。わたくしは、今のままの優しいトランさんと一緒にいられれば、他には何も……」
話しながら、ミュカの手はトランの首筋へと移動する。指先でくすぐるように吸血痕を撫でると、二人は一緒に微笑んで、示し合わせたようにゆっくりと目を閉じた。
――まさにその時だった。
大きな爆発音が響き、あたりが一瞬だけ昼のように明るくなる。グラグラと揺れる建物に、トランはミュカを強く抱きしめた。
「トランさんっ!」
「ミュカ……!」
トランはとっさに腕輪に魔力を込め、結界を起動する。そうして身を守っていると、皆が異変に気がついたのか施設中の魔導灯が灯り始めた。
屋上から下を覗けば、塔の出入り口あたりから黒い煙が立ち上っている。
「何があったのでしょう……?」
「分からない。ひとまず、いつでも逃げられるように荷物をまとめよう」
畳んだブランケットを魔導袋にしまい込むと、二人はギュッと手を繋ぎ屋上をあとにしたのだった。
部屋の荷物を簡単にまとめ、廊下を走る。
周囲のスタッフや職人たちにも、まだ何が起きているのか分かっていない様子だった。騒然としている中、トランたちは何があってもいいように馬車置き場のトレーラーへと向かうことにした。
「ルルゥ師匠は大丈夫でしょうか……?」
不安げなミュカの手を引きながら、トランも同様にルルゥの安否を気にかける。
そうして走りながら、二人が宿泊所の建物を出た時であった。
「トランの兄貴っ!」
「ハンスっ! 大丈夫か、何があった!?」
走ってきたハンスは、膝に手を当てて立ち止まった。肩で息をしながら、余裕のない表情でトランを見る。慌しい空気がピンと張り詰める。
「黒ずくめの衣装を着た、妙な戦闘集団が急に現れて……襲いかかってきて……それで、ギルド長の研究資料を、強奪していったっす」
「研究資料?」
「古代の天眼に関するデータや理論書が根こそぎ……。襲われたギルド長は意識不明っす。それで、その場の何人かが人質として連れ去られて行って……僕は何もできなくて……」
そう言って、ハンスは悔しそうに顔を歪めた。
彼にとってギルド長は、師匠であり恩人であり、父親代わりのようなものだ。もちろん王国にとっても大事件だろう。
「それで、兄貴……! 連れ去られた人たちの中に、ルルゥさんもいたっすよ!」
「なんだって……!?」
「追いかけるなら急いだ方がいいっす! 衛兵団が来ると、調査だなんだと無駄に拘束されるかもしれないっすから」
そう言うと、ハンスは膝をついて咳き込む。
彼の服にも血が滲んでおり、怪我をしているようだが……。今はそれより、早くルルゥを追いかけるべきだろう。
「気をつけるっす、兄貴」
「ハンス、ありがとう。行こうミュカ」
「はい。急ぎましょう」
トランとミュカは頷きあって手を取ると、魔導バイクのある馬車置き場へ向かって駆け出した。





