贅沢な一日
そのケーキ店は、王都で最近話題になっている有名な店だった。
併設されたカフェは落ち着いた雰囲気で、身なりの良い家族連れやカップルが楽しそうに寛いでいる。トランはそんな店の中で、屋根つきのテラス席に座っていた。
対面の席では、幸せそうな顔をしたミュカがフルーツケーキを頬張っている。
「はぁ……美味しい……果物の宝石箱みたいです」
「良かったな。持ち帰り用にも包んでもらうか」
「ふぇっ!? いいんですか?」
「あぁ。たまには贅沢もしないとな」
トランの言葉に、ミュカは蕩けそうな両頬を押さえて感嘆を漏らした。そして早速、彼女の視線が店内のショーケースへと向く。おそらく持ち帰り用のケーキをどれにするか考え始めたのだろう。
「ガトーショコラ……いえ、やはり木苺の……」
「別に一つに絞らなくてもいいからな」
「い、いえっ! それはさすがに……」
「せっかくここまで来たんだ。遠慮することもないだろう? 俺もいろいろと食べてみたいしな」
ミュカは恥ずかしそうに口元を緩める。
トランの資産からすれば大した浪費でもないのだが、思えばこんな風に二人で贅沢をするのは初めてのことだった。
「実はわたくし、少し憧れていたのです」
「憧れ?」
「アーヴィング家のような高位貴族や王族になると、こういった流行のお店に直接足を運ぶことはなかなかありません。恋人や友人などがいれば、変装してお忍びで訪れることはあるようですが」
実家で冷遇されていたミュカには、これまでそういった機会がなかったのだろう。彼女の目がキラキラと輝いているのは、ケーキの味だけが理由ではないのかもしれない。
「トランさん、今日は本当にありがとうございます。それになんだか、色々とおねだりしたみたいになってしまって、すみません……」
「いや、気にしなくていいさ。辺境に戻ったら、こういう店にはなかなか来れないからな」
トランはそう言って、苦めの薬草茶を口にしながら、昨日の夜の出来事を思い出していた。
それは、マキシマムの執務室でケーキを食べてきた日の夜であった。
宿泊所の部屋で、いつものようにトランの首筋から血を吸おうとしていたミュカは、ヒクヒクと鼻を動かして首を傾げた。
『トランさん。何か甘い物でも食べましたか?』
『ん?』
『体から美味しそうな匂いがしますよ』
そう言って、彼女はいつものようにトランの首筋を舐め始める。
『ん……お砂糖と……はぁ……生クリームと……』
『そんなことも分かるのか?』
『はい……なんだか最近、こういう感覚が鋭くなってきているみたいで……』
微かな水音と共に、小さな舌がチロチロと首を這う。トランは変な気持ちにならないよう無心を心掛けながら、彼女の髪をそっと撫でた。
『ギルド長のところで、ケーキを食べたんだ』
『ケーキ……?』
『あぁ。王都で流行りの店みたいでな』
『流行りの……?』
『スポンジがふわふわで、美味しかったよ』
『ふわふわ……?』
話しているうちに、ミュカの舌使いがいつもより激しくなってくる。それはなんだか色っぽい展開というよりも、捕食されているような気分になる舐め方であった。
『……ケーキ……ふわふわのケーキ』
『ミュカ……?』
『甘くて美味しい……ふわふわ……じゅるり』
なんだか身の危険を感じ始めたトランは、戸惑いながらミュカを引き剥がす。彼女は肉を前にした猛獣のような目をしながら『どうしたんですか?』と首を傾げた。
『こ……今度、一緒に食べに行くか?』
『…………………………今度?』
『あ、明日はどうだろ――』
『良いんですかっ!? ありがとうございますっ』
食い気味に反応したミュカは、トランの手をガシッと掴んで満面の笑みを浮かべたのだった。
トランが小さく苦笑いしながら昨晩のことを思い出していると、ミュカは顔を赤く染めて俯いた。
「やっぱり、はしたなかったですよね……」
「昨日の夜のことか?」
「はい……。あんな風に強引に迫ってしまうなんて、わたくしとしたことが……」
ガタンッ。
ミュカの言葉に反応するように、彼女の後ろの席に座っていた男が椅子を鳴らした。小さく咳払いをして座り直しているが、一体どうしたというのだろう。
ミュカはそれを気にすることなく、トランにニコリと微笑みかける。
「なんだかトランさんの腕の中にいると、ワガママな自分がどんどん出てきてしまって……」
「俺としては、初めの頃より自分をさらけ出してくれるようになって嬉しいけどな」
「もう……。あんまり優しくされ過ぎても困ってしまいます……」
ガタガタンッ。
男は再び動揺したように椅子を揺らす。すると、連れの女性が何やら不機嫌そうに「さっきから上の空じゃない」「どうせ他の女のことでも考えてたんでしょ」などと彼に詰め寄り始めた。
(あの男、どうしたんだ……?)
ヒートアップしていく女性に周囲の客の視線が集まり始めたところで、店の裏から強面の店員が現れた。ミュカもまた、釣られるようには彼らの方をチラリと見て――
「あ……」
「ん? どうした、ミュカ」
「……いえ。なんでもありません」
そう言うと、彼女はトランの方へと向き直って再びケーキを頬張り始めた。その表情はどことなく固くなっているように見えるが。
「ミュカ……?」
「……見なかったことにさせてください」
「ん、分かった」
おそらくあの男は、ミュカが王都に暮らしていた頃の知り合いか何かだったのだろう。ならば、貴族社会で除け者にされていた彼女にとって、少なくとも良い思い出のある相手ではないはずだ。
トランは何も聞かないことにして、薬草茶のカップに手を伸ばした。
(なんだったんだろうな、あの男……)
そう考えているところで、ふと視線を感じる。
見れば、強面店員につまみ出されようとしている男は、怨みの篭もった形相でトランのことを睨みつけていたのだった。
春の陽気に誘われたのだろうか。
魔道具ギルドへ帰る馬車に揺られながら、ミュカはうつらうつらと船を漕ぎ始める。トランは彼女の頭を抱えるように自分の肩へと乗せた。
「ミュカ……。大丈夫か? 少し眠ったらいい」
「……ありがとうございます、トランさん」
彼女の肩に外套を掛けると、やがて小さな寝息が聞こえてくる。トランはあくびを噛み殺しながら、腰の魔導ポーチに手を伸ばした。
取り出したのは一通の書簡。それは、つい今朝がたアーヴィング家からトラン宛に届いたモノである。
『春の中月の一日、執務館を訪れること』
この世界の暦は神殿が管理しており、四つの季節ごとに初月、中月、終月の三ヶ月が存在する。現在は春の初月で、もう一週間ほどすれば中月に変わることになる。
アーヴィング家当主との会談は、果たしてどのような内容になるのか。トランは想像を巡らしながら、車窓の外を見て深くため息を吐くのだった。





