二人の傷
ミュカがルルゥの元で修行を始めて数日。
ひとまず判明したのは、彼女は家事をした経験が全くないこと。そして、真面目な割にかなりそそっかしいということだった。
『ミュカっち! どうしてマスターのパンツで顔を拭いてるんだよぅ!』
『ふぇ!? これ……あわわわわ……』
作業室の外から聞こえてくる会話に、トランは乾いた笑いを漏らした。ミュカが顔を真っ赤にして混乱している様子が目に浮かぶようだ。
今日修理を予定しているのは、初期型のデジタル魔導コンロである。
表面の傷や汚れなどを見れば、使用者がこまめに掃除をして大切に使っているのがよく分かる。トランはそういう魔道具を見るのが好きだった。
不用意に壊さないよう慎重に分解し、ひとつずつ洗浄する。交換が必要な部品はそれほどないだろう。
「ん? この落書きは……子どもかな」
魔導コンロの見えづらい場所には、ミミズの這うような字で「コタロウ仮面参上」と書いてあった。いたずら好きな子供の仕業だろうか。こういった落書きは誤って消さないよう、上からマスキングテープを貼るようにしている。
やがて、魔導回路の本体が現れた。
回路の中心にある魔導核。
これは魔物の体内から採取されるもので、マナを流すことによって様々な魔現象を発生させることができるものだ。
魔導コンロで言えば、火ネズミの魔導核にマナを流すことで調理用の火を発生させる。
トランは魔導テスターの検針を当て、片眼鏡でマナの流れを観察した。
「んー、やっぱり魔導核がダメになってるな。新品に交換すると高くつくし……ジャンクの中に火ネズミはあったかな」
ぼやきながら、周辺の回路を調べ始める。
デジタル魔道具が発明される以前、魔道具の構造はもっと簡素だった。それこそ、魔導核とマナ結晶を直接接続し、スイッチさえ存在しないような道具があったのだ。
ちゃんとした作りのものでも、出力の不安定さは常に問題になった。魔導核の個体差、マナ結晶の残量、出力つまみの角度。それらをうまく調節しながら使う必要があったのだ。
一方、トランの作ったデジタル魔導コンロは、ボタンひとつで火力を数段階に調節できる。マナ結晶の残量によらず常に一定の火力で調理ができるため、料理人の負担は遥かに軽くなった。
貴族や有力商人、有名料理店はこぞってコンロを買い替えていった。やがて市井にも広まっていくと、旧型のアナログ魔導コンロはあっという間に姿を消してしまったのだった。
(……別に俺は、古いモノを追い出したかったわけじゃなかったんだけどな)
魔導灯を始めとする他の家庭用魔道具も、同様の流れでデジタルに駆逐されていった。
想像力が足りなかったのだと今なら思える。
新しい何かを作ることと、古い何かを切り捨てることは裏表だ。そんな当たり前のことに気が付かないほど、あの頃の自分は愚かで――。
「ん。周辺回路は大丈夫そうだな。魔導核の代わりが見つかればいいけど」
思考の沼は底なしで、沈みはしても浮かんでは来られない。今はただ、魔道具の修理に没頭する以外に、この息苦しさを紛らす方法はなかった。
窓の外が茜色に染まる頃。
仕事を終えたトランが、凝り固まった体をほぐしている時だった。
コンコンコン。
作業室の戸がノックされ、入ってきたのはミュカだった。見慣れない真新しいエプロンをして、髪は邪魔にならないよう簡単なお下げになっている。
「トラン様、お風呂が沸きました」
「ミュカが沸かしてくれたのか?」
「はい。はじめは夕食作りを手伝っていたのですが、その……途中からルルゥ師匠が無表情になってしまいまして。師匠が料理をしている間に、お風呂を沸かしてくるようにと」
「そ、そうか。お疲れ様。ありがとな」
今度はキッチンで何をやらかしたのだろう。
なんとなく聞くのが恐ろしかったため、トランはひとまず感謝のみを伝えた。詳細はあとでルルゥに聞くことにする。
「あの、お風呂でお背中をお流ししましゅ……」
「よく噛むな」
「コホン。あの……えっと……」
ミュカは顔を真っ赤に染め上げていた。
一方のトランも、先日こっそり見てしまったミュカの寝姿を思い出し……いろいろと想像してしまって、顔を火照らせながら視線をそらした。
「いきなりどうしたんだ?」
「そ、その……」
こんな美少女に背中を流してもらうのは、正直に言えば非常に魅力的な提案なのだが。
(……でも、そんなことさせられないよな)
トランから見ても、彼女は男に慣れている様子はない。度重なる失敗を気に病んでいるようでもあったし、どうにか挽回したい意図でもあるだろう。
「これまでのことは気にしないでくれ。慣れない場所で知らない仕事を完璧にこなすなんて、誰にも無理な話だ。焦る必要はないから」
「……しかし」
「ルルゥも言ってたけど、ミュカは真面目で頑張り屋だと思う。今はそれが分かっただけで十分だよ。別に家事ができないくらいで見捨てはしないから、安心してくれ」
きっと彼女には、実家に帰れない何かしらの事情があるのだろう。
なにせ、貴族令嬢が付き人の一人もなく、手紙にひとつ持たされて吹雪の中を歩いてきたのだ。当初はハニートラップも警戒していたのだが、彼女がそういうものに向いた性格だとも思えない。
――実は、ミュカはアーヴィング家からあまり大切にされていないのではないか。
トランはそう考え始めていた。
結婚については一旦脇に置いておくとしても、今のところ彼女を追い出すつもりはない。
「トラン様はお優しい方です。だからこそ、ちゃんと伝えなければなりません」
「ミュカ……?」
「これまで黙っていましたが……その……」
彼女は床を見つめたまま、胸に手を当てて浅い呼吸を繰り返している。何かを話したがっているようだが、どう切り出したものか迷っている様子だ。
トランが黙って待っていると。
「……お察しの通り、わたくしはもうアーヴィング家に帰ることが許されない身です」
息を吐き、数瞬。
意を決したように、ミュカは顔を上げる。
「……わたくしは、第三王子に婚約を解消された女です。それをきっかけに実家にも見放された……価値のない女なのです。こんなわたくしが、騙すようにトラン様の妻になろうなどと……本来は許されることではなくて……」
潤んだ瞳。震える声でポツポツと話し始めたミュカは、生々しい傷口を自ら晒しているような、痛ましい顔をしていた。





