静心の指輪
名無しの里の夜空を、二つの影が自由に飛び回っていた。
大きい方の影は、魔術で氷の羽を生やしたミュカ。小さい方の影は、大コウモリのバロンに抱えられたルルゥだ。遠目にはどんな会話がなされているのか聞こえては来ないが、その飛び方からは楽しそうにじゃれ合う気配が伝わってくる。
「……そういや、あの大コウモリは結局うちで飼うのかな。俺にだけ、やたら辛辣だけど……」
バロンはルルゥとは一緒に飛ぶほど仲良くなっているが、トランに対しては威嚇ばかりしていた。おそらくはミュカのことが大好きすぎるため、嫉妬心を抑えきれないのだろう。
もしかすると、例の熊耳メイドのユリシアがトランを嫌悪しているのも、根っこの理由は似たようなものかもしれない。
トランはベンチに腰掛け、あれこれと思考を巡らせていた。すると、
「……バロンのことは、私めがお世話をさせていただきます」
噂をすればなんとやら。
振り返れば、そこに立っていたのは他でもないユリシアであった。彼女は相変わらずのメイド服のままで、握りしめた拳がギリギリと音をたてている。
「トラン様。貴方は――」
「ユリシア。話をする前に、これを」
そう言って、トランはポケットから取り出したものを手のひらに乗せ、彼女の方へと差し出した。
それは、月あかりを反射してキラリと光る、小さな指輪だった。
「な……貴方は一体何を考えていらっしゃるのですか……! こんな、こんなものを、ほぼ初対面の女性に無造作に贈りつけるなど……」
「ん?」
「私めが、いかにも男性から好かれなさそうだからといって……いや実際これまで何も……ですが、だからといって、このようなもので懐柔されると思ったら大間違いでございます……! やはり貴方は相当な女たらしの――」
ユリシアは顔を真っ赤にして、四角いメガネの縁を持ち、ガタガタと震え始める。
こんな反応をされるのは予想外だった。
トランは頬を掻きながら、どう釈明したものかと頭を悩ませる。まぁ、シンプルに説明するしかないのだろうが……。
「あー……ユリシア」
「はひっ?」
「誤解だ。色気のある贈答品じゃない。ミュカを守るために必要だから、これを身に着けてほしいというだけで……。ちなみに小指用だ」
「…………はぁ」
「俺の渡し方に問題があった。本当に申し訳ない」
トランは頭を下げ、再びおずおずと指輪を差し出す。
ユリシアはコホンと咳払いをして、トランをギロリと睨みつけながら、不機嫌そうに鼻を鳴らしてそれをつまみ上げた。
「それで……これはなんの指輪ですか」
「静心の指輪。精神系統の魔術耐性を上げる魔道具だ。まぁ、完全に防げるわけではないが」
精神系統の魔術とは、要は対象の脳や神経系に作用する術のことである。呪術や幻術、魔物の調教にいたるまで、様々な術や流派が存在しており、癖の強い厄介なものも多い。
トランも詳しく知っているわけではないが、精神を操作するような強力な術まであるらしい。ミュカを守るためには、そういったものへの対策も必要だろう。
「なるほど……理解いたしました。しかし、この指輪はミュカお嬢様が身につけるべきでは」
「あぁ、もちろんミュカにも同じ機能を持った魔道具を渡してある。ただ、ミュカが信頼している人物が精神操作されてしまった場合も危険だろう。念のため、ユリシアの防御も固めておくべきだと思ってな」
そう言うと、ユリシアはきょとんとした顔でトランを見返した。
「信頼……。まぁ、そういうことであれば」
彼女はコクリと頷いて、そのままリングに小指を通す。
すると、彼女の身体からにじみ出る魔力に反応し、リングがするすると小さくなって指に密着した。小さな魔導核が光る。どうやら無事に、彼女の精神を保護し始めたようだ。
「これは……トラン様。なんだかこれを着けていると、気分が落ち着くというか……トラン様への戦意が薄れる気がするのですが」
「まぁ、確かに使われてる魔導核は夢幻蝶という魔虫のものだからな。気分を落ち着ける副次効果もあるかもしれない」
「……まさかそれが狙いですか?」
「邪推だ。他意はないよ」
夢幻蝶という虫型の魔物は、鱗粉を撒き散らして人に幻を見せる習性がある。また同時に、自分自身が惑わされることのないよう精神を正常に保つ魔導を使うこともできるのだ。
トランはその小さな魔導核を指輪にして、カチュア、キリコやリュイーダなどの数人に渡していた。ユリシアの高ぶっていた精神が鎮静されたのは、本当に偶然のことだった。
「とりあえず、座ったらどうだ」
「はぁ……変なことはなさいませんよう」
「いちいち棘があるな」
彼女は渋々といった様子で、ベンチの端の方へと座る。トランとの間には不自然なほど隙間が空いているが……二人の関係からすれば、妥当な距離だろう。
トランは空を見上げ、楽しそうに飛んでいるミュカたちを眺める。春のぬるい風が優しく頬を撫でた。
「それで……俺に用事があったんじゃないのか」
「はい。ひとつだけ、お聞きしておきたいと思いまして……」
ユリシアは指輪をつけた小指に目を落とした。
その表情は硬いものであったが……。なんとなくではあるが、これまでのようにトランを完全に拒否するという態度ではないように見える。
彼女はふぅと息を吐き、同じように夜空を見上げて呟いた。
「トラン様。貴方は……」
「あぁ」
「貴方は、ご自分がミュカお嬢様の夫として相応しい人物だと、胸を張ることができますでしょうか」
その問いに、トランは言葉を紡ごうとして……うまく声に出せず、顔をしかめたまま髪をクシャクシャと掻いた。
その反応が意外だったのか、ユリシアは不思議そうな顔でトランを見ている。
「あぁー……まぁ、な。相応しいかどうかって考え方をすると、俺は相応しくないんだろうな。ミュカに限らず、誰の横に立つのも」
「トラン様……?」
「自分の作った魔道具が、たくさんの人を不幸にしてしまった。死なせてしまった人も居る。その責任から逃げ出して、こんな辺境で閉じこもってるような奴が……まさか誰かと結婚することになるなんてな。片腹痛い話だと思うよ」
そう自嘲しながら、自分の手のひらを見る。
ミュカのことを抜きにすれば、自分が幸せを享受するべき人間だとは到底思えないのが正直なところだ。
ただ、それでも。
「それでも……今まで苦労を重ねてきたミュカのことは、どうにか幸せにしてやりたい。彼女のそばに寄り添って、見守っていたい……そんな風に思ってる」
これからもミュカの隣にいたいというのがトランの素直な気持ちだ。気がつけば、無意識のうちに首の噛み痕に手を触れていた。
「だから、俺も少しずつ変わらなきゃいけないんだと思う。閉じこもってるだけじゃなくて……。それこそ、彼女に相応しい男になれるように、な」
この件については、トランの中でもまだ折り合いがつけきれてはいなかった。自分の幸せを求めることに後ろめたさもある。
だがミュカのことを思えば、今のまま立ち止まるつまりはない。何らかの形で前に進もうとは思っているのだ。
「悪いな。ユリシアにとっては、ミュカの隣にいるのが俺なんかでは、不満だらけだろうが」
「はい。非常に不快でございます」
「はっきり言うなぁ」
あんまりな言い草に、トランは思わず吹き出してしまう。
ニコリとも笑わないないユリシアは、ゆっくりとベンチから立ち上がると、スカートの裾をポンポンと叩きながらトランを見た。
「私めに認められたくば、せいぜい努力を続けることです。ミュカお嬢様を泣かせるようなことがございましたら、全力で殴り飛ばしますので」
「熊手族の全力か」
「はい。獣人化も用いた全力中の全力でございます」
「……それは勘弁願いたいな」
ユリシアもまた、立場は違えどミュカの幸せを願っているのだろう。それが分かっているからこそ、トランも彼女とどうにか上手くやっていけないか頭を悩ませているのだが。
立ち去ろうとしていたユリシアが、ふと振り返る。眉間にシワを寄せ、なにやら難しい表情をして呟いた。
「私めも一度、バロンを連れて王都へ戻ることにいたします。少々気になることができましたので」
「気になること?」
「今はまだ、なんとも。不本意ながら別行動になりますが……再びお会いするまで、ミュカお嬢様をよろしくお願いいたします」
そう言って一礼すると、なにやら上空に意味深な視線を向け、今度こそ振り返らずにその場を去っていった。





