帝国の混乱
ちょうど昼飯時に差し掛かっていた。
神殿前の広い通りには大勢の人々が忙しなく行き来しているが、春の陽気に誘われたのか、皆いつもより浮ついた顔をしているように見える。
そんな道を歩くうちに、強く憤っていたミュカも落ち着きを取り戻してきたようだった。
「ど、どうしましょう。みなさんにご迷惑を」
そう言って、青い顔をして頭を抱える。
あんな風に制御しきれないほどの強い感情を顕にしたことは、これまでなかったのだろう。ミュカ自身もまだ気持ちを整理しきれていないようだ。
肩を落とすミュカの前で、ルルゥはぴょんと飛び跳ねる。
「気にしなくて大丈夫だよぅ。それより、ミュカっちがマスターのために怒るとはねぇ……」
ルルゥはそう言って、なぜか少し嬉しそうにしている。
トランはミュカの隣を歩きながら、その背をポンポンと優しく撫でた。
「本当に気にすることないからな。あの程度のいざこざは、酒場なら日常茶飯事だし。ボルグとライオルの喧嘩なんて、もっと酷いことになるから……」
狼牙族と虎爪族はそもそも仲が悪い上、ボルグはストイックな武芸者で、ライオルは命知らずの冒険者だ。
その争いは熾烈を極め、ひとたび喧嘩が勃発すれば、みな巻き込まれないよう一斉に建物から逃げ出すほどだった。
それに比べれば、今回のミュカは魔術を行使する前にしっかり止めている。里で起きる事件としては軽微な方だろう。
そうやって話しながら進むことしばらく。
春祭りの行われている神殿の前では、いくつもの屋台が軒を連ね、美味そうな煙を撒き散らしては人々を引き寄せていた。
釣られるように、トランの腹がグゥと鳴る。
「そういえば、酒場で昼飯を食い損ねたな。屋台で何か食べるものを買おうか」
「わたくし、ちょっと気になっていたんです。こういう屋台で買い物をしたことがないので……」
確かに、貴族のご令嬢はこういった屋台とは無縁だろう。
キラキラした目で屋台を見るミュカを連れ、トランは一つひとつ説明しながら昼食のメニューを相談していった。
神殿の扉が開くと、数組の男女が腕を絡めながらゆっくりと歩いて出てきた。
彼らはみな、昨年結婚したばかりの初々しい夫婦であった。春の女神様に結婚の報告をして祝福を授かっていたのだ。
名無しの里で暮らす夫婦は、基本的にワケアリの二人が多い。身分差や種族差、国や家の事情、様々な理由で結ばれることのなかった者たちも、この辺境ならば周囲を気にせずに神の祝福を授かることができる。
トランたちは買ってきた昼食をテーブルに並べながら、そんな彼らに祝いの拍手を送った。
「みなさん幸せそうですね……羨ましいです」
「そうだな。王国でも帝国でも、望んだ相手と結婚することは、なかなか難しいみたいだから」
名無しの里が位置するのは、王国と帝国のちょうど中間あたりにある未開の大森林である。
このあたりは魔樹と呼ばれるマナを放出する植物が多く自生しており、魔物も多く生息している。空気中のマナも、ちゃんと手を入れないと人が住めないほど濃いのだ。
里を維持するのは大変であるが、だからこそ、どちらの国も手を出さない中立地帯として成り立っている。結果的に、行き場のない恋人たちの逃げ場にもなっていたのだった。
「恋愛結婚なんて物語の中だけのものだと思っていましたが……。こうして実在しているのですね」
「んー、平民の恋愛結婚はそこまで少なくもないけどな。ミュカの周りは、やっぱり政略結婚ばかりだったのか?」
「はい。基本的に結婚は、家同士を結びつけるためにするものでしたので……」
ミュカは紙コップのお茶を飲み、ホッと息を吐く。
かつては彼女も第三王子と婚約していて、家のために結婚しなければならない立場であった。もちろん今も、トランとの結婚はアーヴィング家が決めたものであるが――。
「わたくしも、来年はトランさんとあそこに立っているのですね……。ふふ、楽しみです」
そう話す彼女は、目の前の新婚夫婦と変わらない幸せそうな顔をしていた。
屋台飯を頬張り、すっかり空腹も落ち着いた頃。
のんびりと雑談しているトランたちのテーブルに、ひとつの人影が近づいてきた。
「トランくん。その節はお世話になったね」
魔導人形のアルフレッドは、そう言って爽やかな笑みを浮かべた。
「アルっち、ひさしぶり! 体はどう?」
「あぁ、ルルゥ。前よりも調子がいいくらいだよ。君のマスターの仕事ぶりは称賛に値するね」
「えへへ、でしょでしょ!」
ルルゥとアルフレッドは拳をコツリと突き合わせ、仲良さげに笑い合う。魔導人形同士、通じるものがあるのだろう。
ちなみに、彼の恋人である神官ソフィは春祭りの業務で忙しいらしく、ここ数日は別行動をとっているのだそうだ。
トランはアルフレッドに椅子を勧めると、ルルゥが囓っているものと同じマナ結晶を皿にのせる。
「それで……その後、帝国から何か動きは?」
「あぁ。そのことについて話そうと思ってね」
アルフレッドはマナ結晶を口に放り込むと、ポリポリと噛み砕いた。
冬に一度、アルフレッドは帝国の者から攻撃を受けて壊されている。トランが彼を修理をしたのだが、帝国はその様子を魔導カメラで隠し撮りしようとしていたのだ。おそらくはトランの技術をかすめ取りたかったのだろう。
もしかすると、再び帝国にちょっかいをかけられるかもしれない。そう思い、アルフレッドの身体にはちょっとした対策をしておいたのだが。
「例の対策は今のところ無駄になりそうだよ。帝国は混乱中で、それどころじゃなさそうだ」
「混乱……? 何かあったのか」
「くくく。やったのは君じゃないか」
「ん?」
トランは首をひねる。
帝国を混乱させるようなことをした記憶は――。
「……あ」
「そうさ。君が魔導カメラに仕込んだアレが、どうやら猛威を奮ったらしい」
トランが仕込んだのは魔道具版のコンピュータウィルスのようなものだ。接続された魔導核に過剰なマナを流し込んで破壊する、技術者泣かせの仕掛けである。
ちょっとした意趣返し程度のつもりだったが、どうやら見事にハマってしまったらしい。
「軍の魔導研究所にある魔道具が全滅したと聞いてる。やるじゃないか、胸がスッとしたよ。だが同時に、帝国は本格的にトランくんを敵と定めた……かもしれない。まぁ、新皇帝は実績主義だから、君を取り込もうとする動きも残るだろうけど」
「……新皇帝?」
「そうそう。この冬に皇帝が崩御して、代替わりしたのさ。まぁ、これまでも軍部を掌握していたのは皇太子だったから、実質は何も変わらないが」
そう言って、アルフレッドは苦虫を喰むような表情を浮かべる。彼にとって元皇太子――新皇帝とは、こんな顔をするほど毛嫌いすべき人物らしい。
「その新皇帝は、戦争は好きなのか?」
「それはもう。先陣を切って戦場で暴れまわるくらいにはね。それに彼の男兄弟は、そのほとんどが若くして不審な死を遂げている」
「……野心の塊、か」
「うん。筋金入りだね」
厄介な人物に目をつけられたものである。
とはいえ、接触があったのは今回が初めてではないし、大人しく技術を明け渡すのもトランの信条には合わない。遅かれ早かれ、何らかの形で対立はしていたのだろう。
「皇帝の即位にあわせて、帝国軍の動きが激しくなる……はずだったんだが、君のおかげで帝国も攻め入るどころじゃなくなったはずさ」
「なるほど。それは、かなり恨まれてるかもな」
「でも、戦争を未然に防いだ。その点は素直に誇ってもいいんじゃないかな」
アルフレッドにポンポンと肩を叩かれる。
トランは遠い空を見上げ、ふぅと息を吐いた。
これまでも帝国と衝突することは度々あったため護身用の仕掛けはいくつか施している。念の為、それらを強化しておいた方がいいだろう。
「マスター……」
「まぁ、心配はいらないさ。いざとなったら、世界の端まで逃げきるだけだ」
「ふふ。その時は、わたくしとルルゥ師匠もちゃんと連れて行ってくださいね」
そう言いながら、ミュカは微笑みを浮かべてトランの手をキュッと握るのだった。





