従者とペット
「お嬢様はこちらで座っていてくださいませ」
「いや、あの……」
「身の回りのお世話はすべて私めが行います」
そう言って、熊耳メイドのユリシアはミュカを椅子に座らせる。その有無を言わさぬ迫力に、リビングの空気は妙にギスギスしていた。
ルルゥは昼食を作るという名目でそそくさとキッチンへ退避している。トランは完全に逃げ遅れた形で、なんとなく彼女たちを眺めながら、部屋の隅で小さくなっていた。
(あれがミュカの専属従者だった子か……ずいぶん世話焼きというか、なんというか……)
ちなみに、一緒にやってきた大コウモリのバロンは今も窓の外を飛びまわっていた。なんとも自由なペットだ。
「人里離れた場所で、ご不便なさっているかとは想像はしておりましたが……。まさか下女の真似事などをさせられているとは。おいたわしや、ミュカお嬢様……」
「ユリシア。あの、聞いてくださ――」
「これも、私めがついていなかったから……!」
ミュカが家事修行をしているのが、よほど衝撃的だったらしい。ユリシアは目をクワッと見開き、瞳孔の開いた鋭い目でトランを睨みつける。
「トラン様……ッ! いくらなんでも、お嬢様に対してこの扱いはあまりにも酷でございます。即刻、待遇の改善を要求いたしますッ!」
そう言うと、唾を吐き散らしながらズンズンと近づいてくる。
トランは顎に手をあてて思考を巡らした。
以前のソウリュウと同じように、アーヴィング家からの指示でミュカの様子を探っている、というようにはどうも見えない。王国や帝国の息がかかっているような言動にも思えなかった。
もしかすると、彼女の行動には特に裏の意図はなく、素の状態でこの振る舞いをしているのかもしれない。だとすると――。
トランが呑気にそんなことを考えていると、ユリシアはふぅと大きなため息を漏らした。
「私めの父は魔道具ギルドの長をしております」
「ギルド長……? あぁ、あの人は熊手族だったな、確かに。娘さんなのか」
王都の魔道具ギルドを取り仕切っているのは、大柄な熊耳男だった。トランもなにかと世話になっているのだが、ユリシアとは違っておおらかで愉快な人物である。
(種族こそ同じだけど、性格は真逆だな……)
そう考えながら、トランは目の前の神経質そうな熊耳メイドを観察する。その首元には、トランのものによく似た「吸血痕」がついていた。ミュカの従者だったという話に間違いはないのだろう。
「ですから、トラン様のことは以前から存じ上げておりました。父は貴方様のことを魔道具職人として高く評価しております」
「あぁ……それはどうも」
「しかしッ! やはり会ってみて確信しました。どんなに優れた職人だろうと、こんな辺境に引きこもっているような男がミュカお嬢様の夫に相応しいとは到底思えませんッ! ましてこのように、お嬢様に辛い生活を強いるなど――」
ユリシアは激しくまくし立てる。
トランとしても、自分がミュカの夫に相応しい人物だと胸を張って言えるわけではない。そもそもこの結婚自体、流されるように決まったのだ。こんなふうにまくし立てられても、なんとも返答のしようがなくて困ってしまうが……。
するとその時、ユリシアの肩が強く引かれた。
そこにいたのはミュカだ。
「ユリシア。そこまでにしてください」
「ミュカお嬢様……」
「いいですか。わたくしは今、とても幸せなのです。アーヴィング家にいたあの頃よりもずっと」
「し、しかし……ッ!」
「ユリシアが心配してくれるのは嬉しいけれど、あなたの言う待遇改善などわたくしは望んでいません。トランさんを責めるのは筋違いですよ」
ミュカは柔らかく、そして力強く微笑む。
いつの間にこんな顔をするようになったのだろう。この工房に来た当初は、もっと余裕のない表情をしていたような気がする。
――ミュカは強くなった。
トランと似たようなことを感じたのか、ユリシアもまた息を呑んで彼女の顔を見つめていた。
「わたくしは志願して家事を学んでいます。もうお茶だって自分で淹れられるんですよ?」
そう言って、自信たっぷりに胸を張った。
確かに、ここで暮らし始めてからの成長ぶりは誇っていいものだろう。トランは彼女を眺めながら、小さく口角を上げる。
「お嬢様……そのロキニ草は茶葉ではなく痛み止めの薬草でございますが」
「ふぇっ!?」
「はぁ……しかし状況は理解いたしました。お嬢様なりに努力をされたということでございますね」
ユリシアは眼鏡をクイッと上げ、背筋をピンと伸ばした。口元にニッコリと笑みを浮かべて……その鋭い視線をトランへ移す。
「トラン様。ミュカお嬢様を上手く言いくるめて働かせるのはお止めください。その代わり、これからは私めが全ての家事を完璧に行いますので。よろしいですね?」
「いや、よろしくないが。そもそもユリシアをこの工房で雇うつもりはないしな。人手は足りてるし、特に雇う理由もない」
「――ほへっ?」
即答で拒否である。
トランとしては、ルルゥとミュカとの三人の生活に満足している。こうして話していても、工房の生活に彼女が入ってくるイメージがどうしても持てなかったのだ。
ユリシアは目を丸くして静止している。
そんな彼女の背中を、いつの間にか近づいてきていたミュカが慰めるようにポンポンと叩いた。
「ミュカお嬢様……!」
「大丈夫、ユリシアが今後わたくしの世話を焼く必要はありませんよ。わたくしはもうアーヴィング家の令嬢ではありません。トラン様の妻ですから」
「――ふひっ?」
ユリシアの顔が絶望に染まる。
ミュカもまた、トランと似たような気持ちなのだろう。
正式に入籍こそしていないものの、トランとミュカは新婚夫婦のようなものである。特に吸血を始めてからは、二人の仲は深まる一方だ。そこに土足で割り入るのは野暮というものだろう。
「行くあてがないのなら、名無しの里で住む家を探しましょうか。お手伝いしますよ?」
「うぅ……お心遣いが痛うございます。お嬢様、私めをお側に置いてはいただけないのですか?」
「ごめんなさい、ノーサンキューで」
「はふぅぅぅんッ」
腕をバッテンに組んだミュカの姿に強いショックを受けたのか、ユリシアは床に膝をつき、白目を剥いて燃え尽きた。
ちなみにこの動作は、カチュアから伝授されて夜な夜な練習していたものである。まさか実際に使うときが来るとは、教えたカチュアを含め誰も予想していなかっただろうが。
動かなくなったユリシアを尻目に、トランとミュカは割と真剣なトーンで相談を始めた。
「里でリュイーダに仕事を斡旋してもらうとして、ユリシアは何ができるんだ?」
「そうですね。ユリシアは多芸ですから、広く浅くなんでもこなせるとは思いますが……」
そんな話をしていた時だった。
「キュイィィィィィ!」
甲高い鳴き声が部屋に響く。
見れば、先程まで自由に空を飛び回っていた大コウモリのバロンが、窓枠に逆さまにぶら下がっている。
「バロン、久しぶりですね。もしかして、あなたがユリシアをここへ案内してきたのですか?」
「キュッ!」
ミュカのペットとはいえ本来はアーヴィング家に所有権があるのだが、どうやら仕事をやめたユリシアとともに抜け出してきてしまったらしい。
バロンは部屋の中をバサバサと飛び、ミュカの胸へと飛び込んだ。
「よくこの場所がわかりましたね。今夜は久しぶりに、一緒に空散歩でもしましょうか」
「キュイッ、キュイッ、キュイッ」
ミュカが頭を撫でると、バロンは気持ち良さそうに目を細める。
久々の再会にすいぶん喜んでいるようだ。先程までとは打ってかわり、トランは微笑ましい気持ちでその様子を眺めていた。
「そうでした。バロン、紹介します」
「キュッ?」
「こちらがトランさんです。えっと、その……わたくしの、大切な方なのですよ……コホン」
そう言うと、ミュカは頬をほんのり染める。
リビングにはほんわかとした桃色の空気が漂い、死んだように動かなかったユリシアの気配はついに跡形もなく消え去った。
トランはゆっくり歩み寄り、バロンの頭を撫でようと手を差し出す。
「はじめまして、バロン」
ガブリ。
トランの手に噛み付いたバロンは、濁りのない澄んだ目で見返してくる。視線が交差すれば、たとえ言葉が通じなくても感情は伝わってくる。曰く「ぼくのお嬢の何だって?」と。
ガブガブガブガブガブガブガブガブ――。
「痛たたたたたっ」
「トランさんっ! バロン、何をしてるんですか」
「キュイッ?」
なんのこと? と言いたげな顔で鳴いているが、犯行現場はしっかり目撃されている。
ミュカは慌ててバロンを引き剥がすと、トランの手をとってペロペロと舐め始めた。唾液の治癒能力をあてにした傷の応急処置だ。
「らいりょうれふか?」
両手でトランの手を抱え、必死に舐める。そこに他意はなく、純粋に治療のためなのだろうが……。
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……」
「キュイキュイキュイキュイ……」
熊耳メイドと大コウモリの視線は、トランのことを恨めしそうに射抜き続けるのだった。





