森の奥の一軒家
「で、あんたはこの森に何を取りに来たんだい?」
目の前を歩くキノコ型の謎生物――森の精霊は、トランの方を振り返りながら話しかけてきた。まるで長年の友人とでも接するかのような気安さである。
「取りに来た、というか。俺はワインを手に入れたくて、ジェダという人に相談しに来たんだ」
「ほぅ。ジェダの奴にねぇ……」
次の瞬間。
キノコの裂け目から見え隠れする瞳が、まるで心の内を舐めるようにヌメリと覗き込んできた。トランの背筋にゾクリと冷たい汗が走る。
思わず顔をしかめたトランに、彼女はニヤリと口元を歪めた。
「ククク、安心しな。少し覗いただけさ。別に取って喰いやしないよ。それで、なんでまたワインなんか欲しがるんだい?」
「……俺の家に吸血族の子がいるんだが、彼女がワイン切れで倒れてしまって、な」
「大切な子なのかい?」
「俺の……奥さんになる子だ」
トランは思ったまま返答する。
嘘をついているつもりはない。しかし、どうにも森の精霊は不満げだ。
「うーん……あんたの心が、どうも見えないねぇ」
「心?」
「嘘は言っていないようだが、どうもボヤけてるんだよねぇ。あんた、その子のことをどう思ってるんだい。大切に思ってるのかい。それとも、面倒だと思ってるのかい」
森の精霊の言葉に、トランの思考が濁る。
実際、ミュカとは一ヶ月ほど前に会ったばかりなのだ。結婚自体、トラン自身の決定ではない。心惹かれる瞬間もあるが、それを恋愛感情と呼んで良いものかは分からなかった。
――ただ、それでも。
「なんというかな。ミュカはさ……良い子なんだ。俺はもう、あの子に苦しんでほしくない」
「ふぅん……」
「不器用で失敗ばかりだけど、いつも一生懸命で。ああいう子こそ、報われなきゃいけないと思う。俺なんかが夫でいいのか、っていうのは引っかかっているが……。どうにかして、幸せにしてやりたいのは本当だ」
トランは自分なりに、自分の感情を少しずつ言葉に換えていく。
脳裏に浮かぶのは、無防備に眠りこけている綺麗な顔。家事で大失敗して家を燃やしそうになり泣きそうになっている顔。それから、不意にバランスを崩してトランに抱きつき、頬を真っ赤に染めて恥ずかしがる顔。
ルルゥとミュカの間抜けなやり取りを思い出しながら、トランは少し吹き出しそうになった。
「まぁ、夫婦として愛し合ってるか、と言われると微妙なんだけどさ。そのあたりはまだこれからって段階だ。ただ、ミュカのためにワインを探すくらいはしてやりたいと思ってるよ。なんかこう……自分でもまだ、あの子への感情をうまく言葉にできないんだけど」
「……はぁ。あんた、意外と面倒な奴だねぇ」
隣を歩く精霊は大きなため息をついた。
そして、頭の傘をカリカリ掻きながら近づいてくると、トランの足をトントンと叩きながら、
「ねぇ、ところでさ。あんた自身の幸せについては、一体どう考えているんだい?」
そんな言葉をトランに叩きつけた。
瞬間、頭の中へ濁流のように押し寄せてきたのは、まだ王都で暮らしていた時の出来事だった。
冷たい目をした街の人々。囲まれるように倒れ伏している魔道具職人の遺体。それにすがりつく、長い髪を振り乱した女性。
『お前のせいだ……この人が死んだのは、全部お前の……お前のせいだッ! 絶対に許さないからな。死ぬまで恨んでやる、呪ってやる……。返してよ。この人を返してよッ! なぁ、今すぐ返せッ!』
一瞬にして、トランの感情は闇色に塗りつぶされた。
森の精霊はトランの心を揺さぶり、暴き出す。
それは一見すると横暴なようでもあったが、不思議とトランは嫌な感情を持っていなかった。
朝からの冷え込みは酷くなってきている。
ちらちらと降り始めた雪を、トランは手のひらでそっと受け止めた。
「……なかなか上手く生きられないもんだな」
「まぁ、そんなもんだろう。なんの悩みもなく生きていける奴なんて、そうそういないさ」
トランの口がやけに軽く回るのは、はじめに吸った煙のせいだろうか。それとも、この奇妙なキノコ型精霊のせいだろうか。
いつの間にかトランは、あらゆる感情をさらけ出していた。
「なぁ、森の精霊。やっぱり……幸せになっちゃいけない人間っていうのは、いると思うか?」
「知らないよ、人間のルールなんて。ただ、例えばそういう種類の人間がいるとしても……あんたは違うんじゃないかい。あたしはそう思うけど」
「ははは……案外優しいんだな」
「ふん、本心さ。あたしゃ嘘が大嫌いだからね」
ふわふわとした気持ちでトランは歩き続ける。
隣を行く森の精霊は、はたしてトランを責めているのか、慰めているのか、見極めているのか、受け入れているのか。
ただひとつ、嘘の禁止された空間の中で、トランの奥底に溜まっていた何かが呼び覚まされ、少しすつ解されていくのだけは確かだった。
「ねぇ、トランとやら。あんまり心を固くするもんじゃないよ」
「心を……固く?」
「そうさ。自分の頭の中だけで何かを決めつけて、それで自分自身を縛り付けても、誰のためにもならない。あんたの心が悲鳴をあげるだけさ」
森の精霊の言葉は、いまひとつ抽象的だ。
けれどもなぜかトランの中にスッと入ってきて、冷えきった胸に小さな温かさを残していく。
「たまにはさ……何にも考えずに行動してみなよ。特に、あんたの奥さんになる娘の前なんかではね」
そう言って、楽しそうに頭を揺らした。
薄暗い空から降る雪は徐々に強まり、草花や地面へ白く積もっていく。それはどこまでも優しく、自分の中の汚れた感情をも幻想的に覆い隠してくれるようだった。
「何も考えずに……か」
「あぁ、そうさ。それでも、どうしても辛いときはねぇ……。森の中を歩くんだよ。心に嘘をつかないで、ただ森を歩くだけでいい。見えなくても、感じられなくても、話せなくても……きっと森の精霊は、あんたの横を歩いてくれるさ。まぁ、何かの答えをくれるわけじゃないがね」
そう言って精霊は呑気に煙を吐く。
気がつけば、トランは小さく微笑んでいた。
大きな変化があったわけではない。
だが、トランの中で何かが少しだけカチリと噛み合ったような、不思議な感覚が確かにそこにあった。
「さぁて、あんたのことはよく理解できたよ。このまま真っ直ぐ行けば、ジェダの奴のところへたどり着くだろう。さっさと用事を済ませな」
「そうか……分かった。ありがとう」
「ふん、礼を言われることじゃあない。あたしはただ、自分の役割を果たしただけさ」
そう言うと、森の精霊の体はすぅっと薄くなり、霧の中に溶けるように消えていった。
――夢から覚めたように、トランの意識は急にクリアになった。もしかするとこれまでの会話は、深層意識が見せた幻だったのかもしれない。それでも……。
「……ありがとう」
トランの呟きに、木々の葉が少しだけ揺れたような気がした。
ほどなくして、トランの前に小さな家が現れた。
枯れた巨木の切り株を利用して作ったのだろう、自然味あふれるその家は、暮らしやすさとは無縁の構造をしているように見える。
そんな家の前では、銀色の髪をした壮年の男が椅子に腰掛けていた。彼はスッと顔を上げて振り返り――。
「……おや、珍しいな。お客さんかい?」
ミュカにそっくりの赤い目が、興味深げにトランを見返した。