白霧の森
トランはひとり、濃い霧に包まれた森の中を歩いていた。
時刻はまだ昼頃のはずだが、その感覚も徐々に怪しくなってくる。道らしい道もなく、頼りになるのは手元の方位磁針のみだったが、しばらくするとそれも使い物にならなくなっていた。
「磁場も乱れてるか……手が込んでるな」
ここは妖精の結界領域。
もちろん、トランがここにやってきたのは、ミュカ用のワインを入手するためだ。
遡ること二時間ほど。
診療所に運び込まれたカチュアは、柵に囲われた固いベッドの上に横たわっていた。医師ジークは彼女に生命魔術をかけながらアゴ髭を撫でる。
「ふぉふぉ。また無茶な飲み方をしたのぅ」
「はぁはぁ……頭が痛い……ムカムカする……」
「鉤鼻族なんぞに付き合うからじゃ」
カチュアは息を荒げながら滝のような汗をかいていた。聞けば、体内の毒素を排出する魔術がかけられているのだそうだ。体には相応の負担がかかるが、そこは飲みすぎた者の宿命だろう。
「トランや。嬢ちゃんにちょいちょい水をやっとくれ。命がけで乾燥族のモノマネをするのは不本意じゃろ」
「あぁ、分かった。だが、俺もずっと横についていられるわけじゃないんだ。今は急いでワインを探さないといけなくてな」
「ほぅ。何かあったのか?」
カチュアに水を飲ませながら、トランはぽつりぽつりと説明する。
ワインがなくなり、ミュカが倒れたこと。酒場に行ったが在庫がなかったこと。エリィナにワインを分けてもらおうとしたが、とても話しかけられるような状態ではなかったこと。
それを聞いたカチュアは、少し気まずそうに頬をかいた。
「トラン兄、言いにくいんだけど……たぶんエリィナのところには、もうお酒残ってないよ……?」
「なんだって?」
「だって、全部一緒に飲んだもん。買ってきたお酒はもちろん、エリィナが自分で漬けてた果実酒から、秘蔵してたヴィンテージのすっごいのまで……」
そう語るカチュアは何故か遠い目をしていた。
酒に比較的強い夢魔族が倒れるほどとは、どれだけ浴びるように飲んだのだろうか。
思い返せば、エリィナの部屋に転がっている酒瓶の数は尋常ではなかった。あの様子では、ワインなどグラス一杯どころか小人族の涙一滴ほどの量も残っていないだろう。
「困ったな……。これで振り出しだ」
「あたしも、他にワインを待ってそうな人は知らないかな。このあたりでワイン作りをしてるって話も聞かないし」
さて、これからどうしたものか。
するとそこで、唸っているトランの肩を叩いたのは医師のジークだった。
「ジェダの奴に聞いてみたらどうかのぅ?」
「ジェダ?」
「薬師をしている吸血族の男じゃよ。里の者との交流はさほどないが、悪い奴ではない。腕も確かじゃ」
そう言われて、トランは初めて思い出した。
里に身を寄せる吸血族が他にもいる、という話を確かに先日聞いたばかりなのだ。
彼に解決方法を聞くのは、確かに良い手かもしれない。里でワインを購入していないのなら、独自の入手ルートを持っている可能性もある。もしかすると、吸血衝動を抑える別の方法を取っているのかもしれない。
「その、ジェダという人はどこに?」
「あぁ、どこかの森に妖精族の妻と二人で暮らしておるらしいわい。詳しい場所はワシは知らぬからのぅ、リュイーダにでも聞くが良い」
そう言われ、トランは少し焦りはじめた。
思えば、先程は結局「エリィナと会話する」というリュイーダとの取引条件を果たせなかったのだ。その上、さらに追加で情報を要求することなどできるのだろうか。
「ふぉふぉふぉ。そこは悩まんでも大丈夫じゃろ」
「リュー姉はトラン兄のその顔を見られれば満足すると思うよ?」
……それはそれで酷い話だったが。
最終的には二人の言うとおり、リュイーダはトランの修羅場状態をたっぷり弄り倒した後で、薬師ジェダの居場所を教えてくれたのだった。
霧の森を進むことしばらく。
目の前にヒョコっと現れた小さな影に、トランは身構えて目を凝らした。
「キノコ……?」
「おや、レディをつかまえて失礼なヤツだねぇ」
そこにいたのは、身の丈三十センチほどのキノコだった。赤い頭に白い斑点。胴から生える細い手足をクネクネと動かしながら、まるでファッションモデルのような気取った歩き方で近づいてくる。
いかにも怪しげなキノコだ。ただ、この場において怪しい侵入者はむしろトランの方であり、礼を失するわけにはいかないだろう。
トランは深々と頭を下げる。
「失礼な物言い、悪かった。貴女の種族は?」
「種族? ふん、あたしを人間風情と同格だとでも言うのかい? まったく生意気な小僧だよ」
そう言うと、キノコは近くの石の上に腰を下ろし、ぬるりと足を組む。
どこから取り出したのか、慣れた仕草で葉巻に火を点けると、怪しげな臭いのする紫の煙をトランに吹きかけた。
「ケホッケホッ」
「ケシシシシ……。まぁ、無知を責めても仕方ないさぁね。あたしゃ森の精霊。あんた、この結界の先に行きたいんだろう? それなら、それなりの資格を示してもらわないとねぇ」
「資格……?」
「なぁに、難しいことじゃない。あたしゃ嘘の臭いが大嫌いでね。要はあたしの質問に、心のままに答えるだけでいいのさ。簡単さね」
喉に絡みつくような煙に咳き込みながら、トランは思い出していた。
前世では精霊と言えば伝承のような存在だったが、この世界では実在のものである。いわば「意思を持った自然」と呼ぶべきもので、その性格も性質も様々だ。
とはいえ、トランにとって精霊と遭遇するのは初めての経験なのだが。
「さぁ、行こうか。案内するからついておいで」
そう言って立ち上がった森の精霊は、トランを先導してマイペースに歩きはじめたのだった。