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ワインとヴァンパイア

 ミュカが魔道具工房に来てから一ヶ月ほどが過ぎただろうか。

 気がつけば、彼女がこの工房にいるのもすっかり普通の光景になっていた。この頃は特に大きな事件もなく、ある意味で安定した毎日を過ごしている。


「ミュカっち! お米を洗剤で洗ったの!?」

「す、すみません師匠っ!」


 ルルゥとミュカのやりとりもいつものことなので、トランはこれしきのことでは心を動かさなくなっていた。


 今日の夕飯はパンになりそうだな。

 そんなことを考えつつ、穏やかな気持ちで薬草茶を口に含んで喉を潤す。


「ほら見て! 虹色に炊きあがってるよぅ!」

「それは……せ、成功ですか?」

「大失敗の極みだよぅぅぅぅ!!!」


 お茶が気管に入り、ゴホゴホと咳き込んだ。


「なんというか……相変わらずだなぁ」


 ミュカは日々多くの伝説を作り続けている。

 それでもこの頃は、致命的な失敗は減ってきたようである。ルルゥもようやくキッチンに立つ許可を出したのだ。真面目に努力し続けた結果だろう。


 トランが今飲んでいる薬草茶も、ミュカが淹れてくれたものである。もちろん以前のように岩海苔などではなく、ちゃんとした薬草茶葉だ。


「ほら、このご飯を見た感想は!?」

「こ、米粒一つ一つがキラキラ輝いてます!」

「そう、輝いてるよぅ。でもこれはねぇ、ダメな輝きなんだよぅ……! 通常なら食べ物が発することのない、いわば洗剤的な輝き!」

「潜在的な……輝き……?」

「たぶんなんか誤解が発生してるけど、一応説明を続けるよぅ――」


 ルルゥとミュカは今日も騒がしい。

 トランは小さくあくびをしながら、先日作った魔道具へと思いを馳せた。



 手加減の腕輪(リミッター・リング)

 それはミュカがキリコのために考えた腕輪型の魔道具で、キリコの筋力に制限を掛けるものだ。


 鬼角族(オーガノイド)は不器用であり、彼女はどうしても全力でハンマーを振るってしまう。そのため、弱い獲物を狩っても食用にできないほどボロボロにしてしまうことが多かった。

 だがこの腕輪を着けると、ダイヤル式で七段階に筋力の上限を調整できる。つまり、どんなに不器用な彼女でも機械的に手加減をすることが可能になったのだ。


 この魔道具は非常に役に立ったらしい。

 先日はお茶会と称して工房を訪れたキリコが、岩耳ウサギやスライム鳥などの弱い魔物の肉を持ってきてくれたのだ。初めて自分で狩ったのだと報告する彼女は、無表情ながらとても弾んだ声をしていた。



 ぼんやりしているトランの前で、テーブルがドンと叩かれる。


「ねぇマスター! マスターからもミュカっちになんか言ってやってよぅ!」

「……悪い。全然聞いてなかった」

「ますたぁぁぁぁぁぁぁ!」


 ルルゥはテクテクと近づいてくると、トランの脛をポコポコと叩き始める。物理的にはやはり痛くはないのだが、トランは謝りながらルルゥの頭を撫でるのだった。




 ゆったりとした広い浴槽に浸かり、大きく息を吐き出す。


 一ヶ月前の空気は刺すように冷たかったが、この頃は少しだけ柔らかいものに変わってきていた。雪が降る日はまだあるものの、もうひと月もすれば段々と雪が溶けて新芽が顔を出す季節になってくるだろう。


 トランは風呂場の屋根を半分ほど開いていた。暗い空からはらはらと落ちてくる雪を、手のひらでそっと受け止める。


 先日のミュカの魔術は見事だった。

 普段は見せないようなキリッとした表情。巧みな魔力展開。何より、キラキラと光る氷の粒を纏った彼女は、まるで妖精のようで――。


「綺麗だったな……ミュカ」

「ふぇ!? あ、あの、その」

「え?」


 聞こえるはずのない声。

 驚いて振り返ると、そこには顔を真っ赤に染めたミュカが立っていた。服の袖をたくし上げて麻紐で結び、右手には泡まみれのスポンジを、左手には湯の入った桶を持っている。


 おそらく、トランが物思いに耽っている間に風呂場に入ってきたのだろう。


「おしぇ、おしぇなか、お背中お背中……!」

「お、落ち着け! だいたい分かったから!」

「し……失礼しました!」


 ものすごい勢いでペコペコと頭を下げる。

 そのまま風呂場から出ていこうと走り出して――。


 ドシン。バシャア。


 泡を踏んで盛大に滑り、桶を放り投げて頭から湯をかぶった。桶が帽子のように頭に納まったのは、器用というべきか不器用というべきか。


「ミュカっ! 大丈夫かっ!?」

「あわわわわわわわわわ……」


 トランは慌てて浴槽を飛び出し、彼女に駆け寄った。濡れてしまった服は、彼女の体に沿ってベッタリ張り付いている。極力それを見ないようにしつつ、痛むところがないかを調べた。


 どうやら尻を強かに打ち付けたようだが、他に大きな怪我はないらしい。


「と……トランしゃん……」

「ん?」


 トランがホッと胸を撫で下ろす一方、ミュカは両手で顔を隠しながら、なにやらクネクネと悶絶していた。


「ま、まま、ままま……」

「ま?」


 手の指をちょっとだけ開き、チラチラとトランの方を見る。


「ま、前を隠してください……!」


 トランは、慌てて浴槽に戻る。

 自分が全裸であることに気がついていなかったのだ。


 ミュカは耳まで真っ赤に染めながら立ち上がり、今度はゆっくりとした足取りで風呂場を去ってゆく。

 トランは目に焼き付いて離れない彼女の姿を頭の中からなんとか追い出そうと、小声で素数を数える作業を開始したのだった。




 それから数日経ったある朝のこと。

 ぶり返してきた寒さに手を擦りながらダイニングにやってきたトランは、なにやら呆然と立ち尽くしているミュカを見つけた。


 彼女の手には、ワインの空瓶がひとつ。


「ミュカ?」

「お……おはようございます。トランさん」

「おはよう。で、空瓶なんか持ってどうした」

「いえ、その……」


 言葉に詰まるミュカ。

 そこへ、朝食を作り終えたルルゥが跳ね歩きながら入ってきた。こんがり焼いたパンの上に目玉焼きが乗り、トウモロコシのスープからは美味そうな湯気が立ち上っている。


「おはよぅ、マスター。ミュカっち」

「おはよう」

「おはようございます……ルルゥ師匠……」


 貴族らしい優雅な礼をするミュカ。

 だがその顔には、いつもより余裕がない。


 食卓につきながら、トランは彼女の様子に首を傾げる。


「トランさん。あの……次に名無しの里に行くのはいつの予定ですか?」

「ん? 数日後のつもりだったが……」

「数日……ですか」


 通常、トランが名無しの里を訪れるのは月に二回程度だ。食材の在庫や魔道具修理の都合で前後するが、緊急時でもなければそのペースが崩れることはない。


 それを聞いたミュカは、顔を青白くして震え始めた。


「ミュカっち、もしかして……」

「ルルゥ師匠……」

「ぜんぶ、飲み干しちゃったの? ワイン」

「うぅ……はい……」

「うわぁ、大変っ!」


 ルルゥは大慌ての様子で、盆をテーブルに置くとトランの足元にやってきた。手を大きく広げて飛び跳ねる。


「マスター、大変だよぅ。あのね、ミュカっちは重度のキッチンドランカーだったんだよぅ!」

「は?」

「し、師匠っ!」


 慌てた様子のミュカ。何かの冗談かとも思ったが、ルルゥの表情はいたって真剣そのものだ。


「この頃はワインの量が日に日に増えてるし、ワインを切らすと禁断症状で手が震えるんだよぅ!」

「ルルゥ師匠、少し語弊が。わたくしはアルコール依存症では――」

「似たようなもんだよぅ! マスター、急いでワインを入手してこないと、ミュカっちが……!」


 どうやら、吸血族(ヴァンパイア)の吸血衝動とはかなり強いものらしい。種族特性については感覚的に分からないことも多いが、少なくとも現状のまま放っておいて良いものではないだろう。


「あの、わたくしは、その……」


 話しながら、ミュカは膝から床に崩れ落ちた。


 はぁはぁと、肩で短い呼吸を繰り返す。

 どうも様子がおかしい。


「あ、あれ……?」

「ミュカっち!」

「わたくし……」


 彼女の言葉がそこで途切れた。

 どうやら意識を失ってしまったらしい。


 工房の空気が凍る。

 トランとルルゥは、慌てて彼女に駆け寄った。


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