ミュカという名の少女
窓から差し込む朝日に、ゆっくりと意識が覚醒していく。
トランが眠っていたのはいつもの寝室ではなく、リビングのソファの上だった。
慣れない寝方をしたせいか、妙に肩が凝っている。ゆっくりと体を起こすと、左肩をグリグリと揉んで小さくあくびを漏らした。
どうしてこんなところで寝ていたのか。
一瞬そう考えてから、昨晩の出来事が頭の中に蘇ってくる。
「……そうか。吸血族の娘が来たんだったな」
ミュカという名の吸血少女は、ひとまずの挨拶が済むとすぐ、ソファに沈み込むようにして寝息を立て始めた。吹雪の中を歩き通しだったため、体力の限界が来たのだろう。
トランは彼女を寝室に運びこみ、自身はリビングで夜を明かすことにしたのだ。
「嫁になる、か……うーん」
ソファから立ち上がり、凝り固まった腰をグッと伸ばした。もし本当に彼女と一緒に暮らすのなら、ベッドだけでも早めに用意しないと体に悪そうだ。
テーブルの書簡を手にとる。
いかにも貴族らしい、回りくどい表現の多用された読みづらい文章だったが。昨晩なんとか解読したところによれば、確かに「娘のミュカを妻として与える」という内容だった。
「アーヴィング家の印が押された正式な書類。いたずらの類じゃなさそうだけど、印章の照会くらいはしておくか。返信の書簡も書かないといけないし……」
トランは書簡を丁寧に畳んで封筒に入れると、腰の魔導ポーチに仕舞い込んだ。
アーヴィング家は、王国に四家しかない「金級貴族」と呼ばれる特殊な階級で、王族の血も入っている名門だ。隣にある帝国の爵位で言えば「公爵」あたりの立場と言えばよいか。
トランのように貴族籍を金で購入しただけの「銅級貴族」では、アーヴィング家の決定に逆らうことは許されない。
「でもなぁ。見合いをするでもなく、手紙一通で突然娘を押し付けるとか……普通はありえないだろう。どうも厄介ごとの匂いしかしないが」
トランは魔導ポーチをポンと叩くと、小さくため息を漏らした。とりあえず今は流れに身を任せるしかないか。
向かいのソファに目を向ければ、古代遺物のルルゥは鼻ちょうちんを作って眠りこけていた。あまりの人間臭さに、本当に人形なのかと疑いたくなってくる。
「……ルルゥくらいどっしり構えてる方が、いろいろ楽なのかもな」
思わず苦笑いしながら、トランはリビングをあとにした。
これから向かう寝室には女の子が寝ている。
たったそれだけのことで、自分の家なのになぜか緊張しながら、トランは静かに廊下を進んでいった。
余計なことは考えない。着替えを取ったらすぐに退出すればいい。そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吐いて、寝室の戸を静かにあける。
「……ん……すぅ」
小さく漏れ聞こえる声に心臓が跳ねた。
吸い込まれるように視線を向けてしまう。
ベッドの上には、横向きに転がって寝息を立てる少女がいた。トランの気配に気づく様子もなく、ぐっすりと眠りこけている。女の子としてはもっと警戒すべき状況だろうが、それだけ疲れていたのだろう。
窓から差し込む光に、銀色の髪がキラキラと光る。彼女の白い肌は陶器のように滑らかで、小さな唇は桃の花弁のように色づいていた。
――作り物、じゃないよな。
魔導人形のルルゥは笑ってしまうほど人間臭いのに、生きているミュカは作られた人形のように綺麗なのだから、世の中わからないものだ。
サイズの合わない男物の寝間着を着ているからだろう。彼女が小さく身じろぎすると、服の隙間から胸元が見え隠れする。着痩せするのか、こう見ると体のラインには意外と凹凸があって……。
「っと、良くないな。これ以上は目の毒だ」
トランは後頭部をガシガシと掻くと、火照った顔をベッドから引き剥がした。彼女が目を覚まさないうちに、着替えを持ってさっさと退散しよう。改めてそう決心し、クローゼットへと向かった。
結局、ミュカが起きてきたのは昼頃になってからだった。
「申し訳ありません。すっかり起床が遅くなってしまいました」
深々と頭を下げる彼女に椅子を勧める。
空気がキンと冷えているのは、昨日降り積もった雪のせいだろう。トランは彼女のそばに魔導ストーブを運ぶと、スイッチを入れなおした。
「疲れてたみたいだな。少しは休めたか?」
「はい、ありがとうございました。ですが、ろくに説明もしないまま、気づいたら眠ってしまいまして……お恥ずかしい限りです」
ミュカはしゅんと俯いた。
アーヴィング家が彼女を送り込んできた意図はまだ読めないが、彼女自身はどうも何かを企むような感じには見えない。
もう少し観察だな。そう思いながら、トランはストーブに手のひらを向けた。
「もっと休んでくれててもいいんだけど」
「い、いえ! そんな自堕落な生活をするわけには参りません。わたくしはトラン様のちゅま……つ、妻ですので!」
ミュカはなんだかカチコチに固まっている。
大貴族のご令嬢なのは間違いないようだが、それを傘に威張り散らす性格ではないのだろう。むしろ人と話すこと自体が苦手そうな様子だ。
「まぁ、いきなり気負わずに、な」
「は、はい……」
すっかり恐縮しきりのミュカに、トランはどう応対したものかと悩んでいた。
するとそこへ。
「マスター、ミュカさん、お昼ご飯できたよぅ」
現れたのは、盆の上に料理を並べた呑気な魔導人形だった。いつもの慣れた仕草で、食卓の脇の脚立をひょいひょいと登る。
「ありがとな、ルルゥ」
「ありがとうございます」
「今日はまだ寒いから、温かいスープパスタにしたんだよぅ。スープは濃厚なヤギ乳クリーム。上から新鮮なチーズと卵を乗せて、表面をちょっと焦がしてみたんだぁ。いい匂いでしょ」
そう話すと、ルルゥはカラフルなランチマットの上に意気揚々と器を並べはじめた。
焦げたチーズの香るスープパスタに、色とりどりの野菜サラダ。湯飲みに入った薬草茶には、なにやら柑橘類の皮が浮いている。
器を配置し終えたルルゥは、続いてテーブルの中央に花瓶を置いた。ヒマワリに似た黄色い花が一輪と、それを取り囲む小さな白い花。食卓はいつになく賑やかに彩られていた。
「……ルルゥ。なんか気合い入ってないか?」
「え? そんなことないよぅ、いつもこんな感じでしょ。変なマスターだねぇ」
「いやいやいやいや……」
絶対いつもと違うだろう。
そうツッコミたくなったトランだが、ルルゥの目に妙な迫力がこもっているため躊躇してしまう。
(んー……お客さんの前だから、見栄でも張りたくなったのかな)
トランはなんとなく微笑ましい気持ちになってルルゥの頭をそっと撫でる。一方のルルゥはニヤニヤと頬を緩めながらも、トランのことを半眼で見返していた。
「ルルゥはほんと、ルルゥだな」
「マスターも本当にマスターだよねぇ」
「ふふ。お二人は仲がいいのですね」
そう言って小さく笑ったミュカの表情は、先程よりほんの少しだけ和らいでいるようだった。
一方のルルゥは、マナ結晶の盛られた皿を持ってテーブルの端に腰を下ろした。
「押しかけ嫁になんて負けないもん」
「ルルゥ……?」
「私はマスターのための魔導人形なんだよぅ。貴族の子だからって、そう簡単に譲ってなんてあげないんだから」
そう宣言してマナ結晶を囓る姿に、トランはようやく理解した。このいつもより手の込んだ昼食は、ミュカへの対抗意識の現れだったらしい。
(まぁ……様子見でいいかな)
トランの経験上、こういう時のルルゥは放っておくのが一番良い。気がつけばいつの間にかケロッと機嫌を治しているし、今回も大きな問題はないだろう。
「あ、そうでした。トラン様、部屋からワインを取ってきてもよろしいですか?」
「ワイン……?」
「はい。その……吸血族はワインを飲むのが習慣でして。しばらく飲む分は家から持ってまいりましたので」
「あぁ。自由にしていいよ」
吸血族にとってワインは欠かせないもののようだ。気にする必要はないのに、ミュカはなぜか恥ずかしそうに身を捩りながら部屋を去ってく。
ちなみにこの世界で、飲酒に年齢制限はない。
赤ん坊の頃から酒を飲んで育つ鉤鼻族など、種族によっては酒を飲むことが生活の一部なのだ。規制などとてもできないだろう。
ルルゥのスープパスタは、まさに絶品だった。
いつも以上の凝った味にトランは感嘆を漏らし、舌の肥えた貴族令嬢のミュカも目を見開いて褒め称えていた。
「ルルゥ様の料理、素晴らしかったです」
「ふへへ、ありがとぅ。ミュカさんはデザートなにがいい? プリンもあるよ?」
「ふぇ!?」
「チョロいな」
ミュカのまっすぐな称賛に、ルルゥの対抗意識はどこかへ旅立っていたらしい。持ち前のチョロさをさっそく発揮しつつ、満足そうな顔で小さな胸を張ったのだった。
翌日のことだった。
ポン、ポン、ポポン。
そんな聞き慣れない音に、トランはすっと目を覚ました。
「なんの音だ……?」
ソファから体を起こし、部屋を見回す。
時刻は早朝。あたりはまだ薄暗く、ルルゥは向かいのソファで眠りこけている。
ポポン、ポポポポン。
奇妙な音は、キッチンの方から聞こえてくる。何か小さなものが連続で破裂しているらしい。
「……むにゃ。おはよぅマスター」
「ちょっとキッチン見てくる」
「私はあと五分寝るよぅ……すやぁ」
ルルゥは再びパタリと倒れる。
トランはソファからゆっくりと立ち上がると、音の正体に思いを馳せながらキッチンへと向かっていった。
「……で、どうしてミュカは、朝からポップコーンなんて作ってるんだ?」
目の前には、珍妙な光景が広がっていた。
魔導コンロにかけられたフライパンから、キッチン中にポップコーンが飛び散っている。四つん這いになったミュカが必死にそれを拾うも、全く集めきれていなかった。
トランの声に気づいたミュカが、さっと立ち上がる。
「トラン様、おはようございましゅ……コホン」
顔を真っ赤に染めたミュカは、ワンピースの裾を持ち上げて優雅に一礼する。澄ました顔を装っているが、背後ではポポポポンと音を立ててポップコーンが破裂し続けていた。
「おはよう。で、どんな状況だ?」
「はい。朝食にパンを焼こうと思ったのですが」
「……パン?」
「も、申し訳ありません……」
なぜパンがポップコーンになってしまったのか、彼女には後でしっかりと事情聴取をする必要がありそうだ。
「とりあえず……片付けようか」
「……はい」
このお嬢様、もしかして色々と残念な子なんじゃないだろうか。
そんな内心を顔に出さないよう気をつけながら、トランは努めて冷静にキッチンの片付けを始めた。





