吹雪の日のこと
――冬の女神様の旦那は、浮気者らしい。
神話によると、この世界には季節を司る四人の女神様が存在している。彼女たちの家庭事情によって一年の気候が変化するのだ。
この冬が例年に増して寒いのは、旦那の浮気がついに露呈してしまったからだ。そんな噂があちこちから聞こえてきていた。
初々しい春の女神。
情熱的な夏の女神。
落ち着いた秋の女神。
そして、冷え切った冬の女神。
苦笑い混じりに神話を思い返しながら、青年トランはかじかんだ手を擦り合わせた。
「今夜は修羅場かもな」
窓の外は吹雪いていて、昼過ぎだというのに薄暗い。叩きつける風は弱まる気配すら見せず、魔導ストーブをフル稼働させても部屋は一向に暖まらなかった。
今頃は、女神の旦那も顔を真っ青にしている頃だろうか。
修理中の魔道具を手に取る。呪視の魔鏡という高価な魔道具も、壊れている現在はそのあたりに転がる手鏡と何ら変わらない。
鏡には見慣れた自分の顔が映り込んでいた。少しクセのある黒髪と、怒っているような鋭い目、翡翠の色をした瞳。ただでさえ冷たい印象を持たれがちな上に、彼の表情筋は仕事をサボりがちだ。
「……覇気のない面だ」
クシャクシャと頭を掻き、壊れた魔道具を箱にしまった。片眼鏡と手袋を外すと、ぐっと背伸びをする。
トランは今年で十八歳。独立するには若すぎるほどだが、これでもれっきとした魔道具職人だ。
コンコン。
ノックの音に生返事を返すと、戸が開かれた。
「マスター、休憩中?」
どこかのんびりとした幼い声。
入ってきたのは、少女の姿をした人形だった。身長は五十センチほど。みかん色の髪をポニーテールにして、枯れ草色のつなぎの上から黄色いエプロンを着けている。
トランは小皿にマナ結晶をのせると、机の隅にすっと置いた。
「どうにも手が震えてな。ひどい冷え込みだ」
「そう思って、温かい薬草茶を淹れてきたよぅ」
「ありがとな、ルルゥ」
ルルゥは古代遺物の魔導人形で、トランの助手。この工房で共に暮らす唯一の家族でもある。
小さな体で盆を抱えたまま、ひょいひょいと器用に脚立を駆けのぼった彼女は、得意げな顔で作業台の上にコトリと湯呑を置いた。
「魔道具の修理、終わりそう?」
「先に俺の指先がやられそうだ。今日は早めに仕事を切り上げるから、風呂の準備を頼む。夕飯もいつもより早めに取ろう」
「はぁい。人形づかいの荒いマスターだよぅ」
そう言いながら、ルルゥは小皿から小石ほどのマナ結晶をつまみ上げ、駄菓子のようにポリポリと噛み砕いた。
トランは慣れた手つきで彼女の髪を撫でる。
「いつも感謝してるよ。優秀な人形は、マスターを堕落させてしまうものらしい」
「ふへへ。そんなにおだてたって、夕飯にロールケーキが追加されるくらいだよ?」
「チョロいな」
「それが私の良いところだよぅ」
どういうわけか、彼女は自分のチョロさを誇りに思っている節があった。ドヤ顔の似合う人形に、トランはつい頬が緩んでしまう。
「夕飯は熊鍋だよ。すっごく美味しいから期待しててね!」
そう言って床に跳ね降りたルルゥは、ご機嫌な様子で部屋を去っていった。
熊鍋で満腹になる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。魔導灯の柔らかい光の下、トランはソファに沈み込みながら本のページを捲る。
「マスター、お風呂もうすぐ沸くよ」
「ずいぶん時間がかかってるな」
「水道が凍りついて大変だったんだよぅ」
そんな会話をしているときだった。
トントントン。
玄関の戸を叩く音が聞こえてくる。
「お客さんかなぁ」
「まさか。こんな吹雪の中を出歩く人なんて」
トントントン。
再び聞こえた音に、トランは慌てて立ち上がった。
ここは人里離れた山の中だ。周囲にあるのは小さな畑や森ばかり。来客に心当たりはないが、こんな吹雪の中に放置すればあっという間に氷漬けだろう。
玄関の引き戸をガラガラと開く。
――そこにいたのは、一人の少女だった。
身長はトランの胸ほどだろうか。
キラキラと輝く長い銀髪。ぱっちりとした大きな目には、燃えるような赤い瞳が宿っている。耳の先端が尖っているから、少なくとも丸耳族ではないようだが。
「お初にお目にかかります。わたくしは」
「いいから家に入れ。凍え死ぬぞ」
トランは半ば強引に彼女を招き入れると、ピシャリと戸を閉めた。
寒さでガチガチに固まった体から背負い袋を引き剥がす。コートもブーツもびしょ濡れで、このままでは風邪をひいてしまうだろう。
「ありがとうございます。その……」
「あー、話は後で。ちょうど風呂を沸かしてるから、まずは体を温めてくれ。案内する」
真っ青な顔をしている彼女を放っておくわけにもいかず、細い手をとり廊下を進む。土足のままだが、気にしている場合でもないだろう。
吸血族、か。
口元に鋭い牙が見えたため、まず間違いない。ただ、吸血族がこの家に来る理由には心当たりが全くなかった。
汚れた床や濡れた背負い袋を手早く片付け、リビングの椅子に腰掛けた。
「マスター、知り合い?」
「いや、初対面だが……」
優秀な希少種族というのはどの国でも優遇されているが、この王国で吸血族は特に地位が高く、そのほとんどは貴族だ。
「厄介ごとは勘弁してほしいんだがな」
「うんうん。マスターは世捨て人を自称して、わざわざ辺鄙なところに引きこもってるのにねぇ」
「棘のある言い方だな」
「愛のある苦言だよぅ。マスターはもっと好きに生きなよ」
頬をプクッと膨らませたルルゥから視線を逸らすと、トランはキッチンへ向かった。
小さな手鍋にヤギ乳を注いで、ルナ草の花蜜を加える。ゆっくりと混ぜながら魔導コンロで温めれば「花蜜ミルク」の完成だ。冷えた体には、こういった飲み物が一番だろう。
これは優しさではない。貴族令嬢のご機嫌取りに近い何かだ。そんなことを思いながら、トランは濁った感情をため息にして吐き出す。
(……俺はいつも、打算と自己弁護にまみれた偽善ばっかりだな)
前世で日本に暮らしていた頃、彼は工学系の高専に通う学生だった。
性に合っていたのだろう、友人とロボコン大会に出場したり、叔父の経営する町工場に入り浸ったり。そういった経験は、転生しても頭の中に強く残り続けた。
生まれ変わった今世で、父親は魔道具職人だった。そして、幼い頃から魔道具作りを学ぶうちに、気づいてしまったのだ。
『魔道具でも論理回路を作れそうだな』
数年にわたる研究の結果、彼はついにそれを実現した。
――デジタル魔道具。
その発明は、これまでのアナログな魔道具技術を一気に塗り替えたのだ。
『お前は天才だ!』
父親の顔が欲に歪む。
十歳の頃に完成したデジタル魔道具は、その後たった二年で老舗の魔道具工房をひとつ潰した。トランの生家に金が溢れる一方、多くの魔道具職人が仕事にあぶれた。
……彼がそのことを知ったのは、首を吊った職人の遺体に遭遇した後だった。
『父さん。俺、家を出るよ』
『待て。金でも女でも、好きなだけ――』
父を振り切って、十五歳で家を出た。
そして、密かに書き溜めていたデジタル魔道具の理論書を魔道具ギルドに公開した。技術を広める代わりに、売上の一部を技術使用料として受け取ることにしたのだ。
ほどなくして、魔道具市場は父の独占状態から抜け出した。優しさや正義感などでは決してない。ただ、自分の罪から逃げたかっただけだ。
あれから三年、ギルドの口座残高は常に増え続けている。その金で護身のために貴族籍を買い、職人の遺族に生活費を渡し、それでも使い切れない分は孤児院や診療所などに寄付をしていた。
手慰みに魔道具の修理をしながら、山の中で細々と暮らすのがトランの日常だ。
――偽善を積み重ねても、罪は消えないのに。
ちょうど花蜜ミルクが出来上がったところで、リビングに少女が現れた。男物の寝間着は大きすぎたようで、裾を幾重にも捲っている。
ペコリと頭を下げる彼女をソファに座らせ、ミルクのカップを手渡した。
「まだ熱いから気をつけて」
「はい。いただきます…………あちゅっ」
「だ、大丈夫か?」
「しちゅれ……コホン。失礼しました」
恥ずかしそうに俯きながら、ミルクをフーフーと冷ます。しっかりしていそうで、案外抜けているところがあるのかもしれない。
ほどなくして、少女はすっと佇まいを直した。
「トラン・ブロン・デジタライズ様。挨拶が遅れました。わたくし、ミュカ・ゴルド・アーヴィングと申します」
アーヴィング家。それはトランが貴族籍を買うときに寄親になってもらった名門貴族だ。とはいえ、書類のやりとりをしたのみで、直接の面識はないのだが。
一体何の用事だろう。
トランがそう思っていると。
「急な話ですが……父より、トラン様に嫁ぐようにと命を受けてまいりました」
「は?」
「わたくしは現在十四歳。あと一年で成人を迎えます。これから妻として共に暮らし、成人後に正式に籍を入れるとのことです」
――このお嬢様と、結婚?
困惑するトランに向かい、ミュカと名乗る少女は深々と頭を下げた。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
吹雪の夜。
トランとミュカはこうして出会ったのだった。