スポット派遣
エアコンの音がする。
さっきからずっとエアコンの音がしている。
僕は椅子が六つある会議室の中に一人で仕事をしていた。今日の仕事内容は、目の前に机の上に置かれた大量のビニール製の袋の中にA4サイズの複数の種類のチラシを決められた順番で入れることだった。袋には今僕が来ている会社のロゴ、各チラシには様々な会社のロゴや商品が書かれていた。袋は合計で約二千個あるらしい。何かのイベントで配るもののようだった。
会議室に置かれた時計の時刻には十三時と表示されている。午前中の十時から始めて約半分の千個程程度が終わっていた。派遣会社からは今日は十八時までと伝えられていたが、このペースだと十六時くらいには終わってしまいそうだった。
会議室のドアをノックする音がした。「はい」と僕は小さく返事をした。おそらく外には聞こえていないだろう。
「お疲れ様です、進捗状況は如何でしょうか」
派遣先の会社の芹澤さんという女性が会議室に入ってきた。
「約半分程度終わりました」
僕はチラシを入れ終えた袋をまとめている段ボールを指さしてそう言った。
「おお、早いですね」
芹澤さんは僕の隣の椅子に座り、袋の中身を確認し始めた。
「佐藤さんは大学生ですか」
「はい、そうです」
僕は大学を五年前に卒業していたが、平日に単発の仕事で派遣先に来ると毎回のように聞かれるので、大学生だと答えることにしていた。
「お昼休憩は取りましたか」
「いいえまだです」
「好きなタイミングで取ってくださいね」
「ここで食事をしても良いでしょうか」
「はい。でも休憩なので外に行っても大丈夫ですよ、気分転換もかねて外に食べに行ってみては如何でしょう。近くのお勧めのお店を教えますね」
「お弁当を持って来てるので大丈夫です」
「お弁当ですか、自分で作ったんですか?男の人なのに凄いですね。私はいつも外食ばかりですよ」
「初めてくる仕事先なのでお店が近くにないこともあるので自分でできるだけ持ってくるようにしているんです」
お店が近くにないことなんてオフィス街なのでありえない。お店はたくさんある。僕は昼食代を節約したくて自分で弁当を作っていた。
「そうなんですか。この近くはランチでおいしいお店が結構あるので次に来た時にはぜひ行ってみてください。あ、お茶でも飲みますか」
芹澤さんはそう言うと外に出ていき、来客用のものだという缶のお茶を渡してくれた。
「では、何かあったら遠慮なく連絡してください。またしばらくしたら来ますので」
そう言って会議室から出ていった。
僕は芹澤さんが出て行った後で、芹澤さんという名前で合っているか少し不安だったので、スマホに書いたメモを見返した。単発の派遣仕事では名前で呼び合うことはほとんどないが、ごくまれに質問する際などに名前で呼ばないと不自然な場面がある。頭の中で記憶しておいてもすぐに忘れてしまうので、最初にメモしておくことを習慣化していた。仕事時間が終わったらもう会うことはないであろう人の名前を覚えておくことはなかなか出来なかった。今日は最初にこの会社に来た際に、芹澤さんという女性と、片岡さんという男性の二名に仕事内容を指示された。見た目からして片岡さんの方が年上そうだったし、二人のやり取りからしておそらく片岡さんが芹澤さんの上司なのだろうかと思った。名刺が渡されているわけではないのでよく分からなかったし、おそらく僕の今日の仕事においてはあまりどうでもいいことなのだと思う。
僕はもらったお茶を飲みながら自分で作った弁当を食べた。二十分くらいで食べ終えると、やることがなくなった。休憩時間は一時間取る契約だったので、スマホで漫画でも見ようかと思ったが、特に見たいものもなかった。袋にチラシを入れる仕事を早く終えたら帰ってもいいと言われるだろうか。単発の派遣では二回に一回くらいの確率で時間よりも早く帰っていいと言われることがある。だが今日は早く上がっても特にやりたいことがあるわけでもなかったので、どちらでもよかった。
十分くらいして、僕は袋にチラシを詰める仕事を再び始めることにした。
エアコンの音がしていた。
袋に繰り返しチラシを入れていると、脳の奥の方が休止状態になったような感覚になってくる。余計な考えが消えていく。特に今日はまわりに誰もいない空間であるのが心地よかった。それでいて、少しは誰かの役に立ってもいる。
机の上に積まれた袋は僕が慣れたからか、午前中よりも早いペースで完成済みの段ボールへと入っていった。十五時を過ぎたあたりで、もう終わりが見えかけていた。
会議室のドアがノックされ、僕が返事をする前にドアが開いた。片岡さんが入ってきた。
「どうですか、終わりそうですか」
「はい、あとはこれだけです」
僕はテーブルの上の袋を指さした。
「順調ですね。チラシの数は足りそうですか。チラシは少し多めに印刷されているものもあるので、チラシが余るのはいいのですが不足しているものは印刷しないといけないので」
「袋に対してチラシが足りないということはないと思います」
片岡さんは終始、必要以上に笑顔だった。だが僕は笑顔を向けられているようには何故だか感じなかった。
「では終わったら僕の携帯に電話してください。確認に来ますので。その後は運ぶのを手伝ってもらうかもしれません。それでは」
片岡さんは早口でそう言うと数秒でも時間が惜しいとでも言わんばかりに出て行ってしまった。手にノートパソコンを持っていたので、会議にでも行くのだろう。僕は袋にチラシを詰める仕事が終わったら次はどうするのか聞こうと思ったが、タイミングがなく聞けなかった。どちらにしても袋にチラシを詰め終わったら聞けばいいことだった。
僕は袋にチラシを詰める仕事を再開した。
残りの袋は少なかったので、一時間もせずに全ての袋にチラシを入れ終わった。
僕は念のために最初の方に入れた袋の中のチラシの順番に間違いがないか確認して、段ボールの中の袋を運びやすいように整理した。スマホを取り出して、教えてもらっていた片岡さんの電話番号にかけた。コール音が数度繰り返されて留守番電話になったので、袋にチラシを入れ終わったことを伝言で入れた。机の上の余ったチラシを整えていると、スマホが鳴った。片岡さんからだった。
「すみません、会議中でして。終わりましたか」
「はい、終わりました」
「では芹澤に確認に行かせますね」
「よろしくお願いします」
僕がそう言い終わるかどうかのタイミングで、電話はすぐに切れた。
僕はもう一度段ボールに入った袋を整えて、段ボールの蓋を閉めていつでも運べる状態にしてドアの近くに移動させた。机の上のチラシも端の方へとまとめた。それが終わると、椅子に座った。スマホで何かしようかと思ったが、すぐにしなければいけないこともなかったし、芹澤さんが来た際に印象がよくないかと思い、やめた。
部屋の中にはエアコンの音がしていた。
芹澤さんはなかなか来なかった。
単発の派遣では待つことはよくあった。おそらく芹澤さんも片岡さんのように仕事で手が離せないか、僕の業務時間が余ったので僕が次に行うための仕事の準備をしているのだろう。電話をかけて片岡さんの会議の邪魔になったらまずいし、次の仕事の準備が整う前の状態で仕事を渡されるのもそれは困るかもしれない。準備が整う前の仕事を渡されることは、あまり好きではなかった。苦手というほどではないけれど、ゴールが明確に整えられていない状態の仕事では進捗させることができないかもしれないので迷惑をかける可能性があった。それはできれば避けたかった。
エアコンの音がしていた。
僕はどこを見るでもなく、壁と机を交互に見つめていた。
時間が過ぎていった。芹澤さんも片岡さんも僕よりも前に会社に来て僕が行う仕事の準備をしていて、僕が帰った後もまだ働くのだろう。僕よりもきっと仕事ができるはずなのに。明日も明後日もこれから先ずっとこの会社に居続けるのだろう。
僕は袋にチラシを詰める仕事をしたくなってきた。余計なことが頭に浮かんでくるのが嫌だった。もう一度片岡さんに電話をかけようかと少し思ったが、やめておくことにした。片岡さんと芹澤さんの仕事の邪魔をしたくなかったし、僕が行う仕事があったらここに来るだろうと思った。
壁と机を交互に見たり、エアコンの音を聞いたりして、椅子に座っていた。
時間は十八時になった。
片岡さんはまだ会議を続けているかもしれないので、教えてもらっていた芹澤さんの電話番号にかけた。
「お疲れ様です。片岡さんには結構前にお伝えしたのですが、仕事は終わりました」
芹澤さんはすぐに会議室に来てくれた。ノックをせずにドアが開いたので思わず少し驚いた。
「すみません、すぐに来れずに、本当にすみません」
芹澤さんは何故だか僕に何度も謝った。凄く真剣な顔をしていた。業務終了時刻の十八時を少し過ぎているからだろうか。単発の派遣の業務では時間が読めない仕事も多く、既定の時刻を少し過ぎてしまうことはよくあることだったので、僕は全く気にしていなかったので、「全然大丈夫ですよ」と伝えた。
「本当にすみません、この段ボールは私が運びますので、もう帰宅していただいて大丈夫ですので」
芹澤さんはチラシの入った袋の詰まった段ボールを重そうに抱えた。
「手伝いますよ」
「いえ大丈夫です、大丈夫です。本当に失礼しました」
時間が過ぎていることなら気にしなくていいと思ったのだが、芹澤さんは何とか段ボールを持てているので、僕はそれ以上言わないことにした。
「これはどうしましょう」
テーブルの上にきれいに並んでいる余ったチラシを僕は指さすと、全部まとめて私の持っている段ボールの上に載せてください、と芹澤さんは言った。僕は言われた通りにチラシを段ボールの上に載せた。
「本当にすみませんでした。部屋の電気を消しますね、忘れ物などないでしょうか」
「大丈夫です」
芹澤さんは段ボールを持ったまま急いでドアの前まで進むと、器用に部屋の電気を消して外に出た。僕にスイッチを押すよう指示すればいいのにと思ったが、きっと僕の業務時間が過ぎていることを気にしているのだろう。
僕は部屋を出る際に、電気のスイッチの隣にあるエアコンの電源を芹澤さんが切り忘れていることに気づいた。僕は芹澤さんに気付かれないように、そっとエアコンの電源を切った。