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愛してくれなんて言わないわ。
でもこれは酷いんじゃない?
「あんた、信じられない。」
頭から滴る雫が頬に届く頃には、涙は引っ込んでいた。
わたしの名前は田中皐月。
田中家の長女に生まれ早29年。
今日は朝から運がなかった。
目覚ましは電池切れで鳴らないし、慌ててタンスの角に足の小指をぶつけた。
信号は見事に全部赤だったし、財布は机に置きっ放し。
挙句に雨まで降ってきた。
「あんなに晴れてたのに…」
破れたストッキングを会社のゴミ箱に捨てながら、どうやって帰ろうかと考えた。
「送ってやろうか?」
「片山さん…お疲れ様です。昼も貸してもらったのに送っていただくなんて…気持ちだけいただきます」
後ろから、一様同期の、片山勲に声をかけられた。
左手にはわたしにもわかる、高級車の車の鍵を掲げていた。
実は財布を忘れてお昼ご飯を奢ってもらったのだ。
「昼も言ったけど同期なんだから敬語はやめろよ。前まで付いてなかっただろう」
片山さんはクスクス笑いながら今日は冷えるな、なんて言いながらわたしにココアを渡してきた。
「あ、ありがとうございます。でも、もう上司なので…いくら同期とはいえ周りの目もありますから…」
曖昧に笑ってココアを受け取った。
片山さんはいわゆるエリート。
なにせこの人はもう最年少部長にまでなり上がってる。
この会社が出来てからの異例の大出世らしい。
「同期だけど、その前に同級生じゃないか。あまりよそよそしいのは寂しいものがあるな」
そう、彼とわたしは実は小中の同級生で、会社の入社式で予想外の再会を果たしたのだ。
同時に忘れていた感情にも再会してしまった。
「す、すいません。善処します」
彼はまたクスクス笑って善処してくれと言ってわたしの鞄を手にとって歩いて行ってしまった。
「えっ待ってください!片山さん!」
慌てて追いかけて鞄を取ろうとすると、ひょいと上に挙げられてしまった。
「雨が止むまで会社に残るつもりだろう?今日は夜までずっと雨だって予報で言ってた。そんな遅くまで残せられない。大人しく俺に送られるんだ」
言い当てられて少し動揺した。
「走って帰ります!そんな迷惑はかけられません!」
彼は少し驚いた顔をして、またクスクスと笑い始めた。
あまりに必死な顔のわたしに笑ったのかわからない。
「そんなことしないよ。濡れて公共機関を使う方が迷惑だって君はちゃんとわかってる。必ず雨が上がるまで残るはずさ」
そう言いながらエレベーターに乗り込む彼に腕を引かれた。
「と、途中で傘を買います!!コンビニがすぐ下にありますから!」
「ふふ、傘は買えるのに俺に昼を借りたのか?」
本当に面白そうに片山さんに笑われた。
あまりに必死に訴えたのかもしれない。
「そ、それは…うぅ…」
いいよどむと彼はお腹を抱えて笑い始めた。
なんだか終始笑われてる気がする。
社員食堂でも財布を忘れたと言ったら吹き出して笑っていた。
「君は昔から頑固だなぁ!」
地下駐車場に止まったエレベーターを降りながら彼は鞄は人質だよ!とわたしの届かない高さに掲げて歩いて言ってしまった。
昔から、なんて。
本当に今日はついてなかった。
また感情を少し思い出してしまった。