第98話 耳切り事件
1888年12月──。
フィンセントとゴーギャンとの仲はもはや修復不可能となっていた。
水と油。話の平行線。話し合いの解決の糸口が見えない。議論が成立しないのだ。
芸術とはなんだ? 絵画とはなんだ? 自分が書きたいもの? 人が見たがるもの? 宇宙? 愛? 光? 影?
互いの考えが一致しない。互いを認め合えればそれで解決するのに、認めあえれない。その結果──。
ゴーギャンはさっさと荷物をまとめ、フィンセントはそれを寂しく見守る。
行かないで欲しい──。
やはりケンカはしてもよい仲間なのだ。そして出て行くと言うことは自分が見捨てられるということ。
だが二人の作風はまるっきりあわないし、主張も違う。雑談だけで過ごせば良かったのだ。
互いの芸術家論などしなければよかったのだ。
しかし二人にはそれしかない。
共通の話題と言えば芸術だ。ましてやフィンセントはその話を好んだのだ。だから衝突してしまったのだ。
「ゴーギャン。もしもよかったら、別れる前に二人でモンペリエのファーブル美術館に行かないか? それをキミが南の島へと行く餞別としたい」
その提案にゴーギャンの荷造りの手も止まる。
「本当か? 行ってみたかったんだ」
「そうか。じゃぁすぐにでも行こう」
二人は汽車に乗ってモンペリエへと向かった。
もう別れるという気持ちがゴーギャンの心を柔らかなものとしたのかもしれない。それにその日のフィンセントの言葉にそれほど激昂させるような内容も無かったのだろう。
二人は芸術を堪能し、またもや芸術について話し合った。それはぶつかるためではない。本当に有意義なもの。ゴーギャンはフィンセントの前で荷造りを解いた。それにフィンセントの表情も柔らかくなる。
見捨てられなかった。自分はまだ大丈夫なのだ。これからはうまくやっていけるかもしれない。上手に話し合えるのかもしれない。
そう思った。だがそれはその日の晩だけだった。二人はまたもや衝突する。衝突は芸術だけのことに留まらなかった。フィンセントはゴーギャンが妻子を捨てたことを、ゴーギャンはフィンセントが誰からも相手にされないことをケンカの内容に盛り込んだ。
言い過ぎた──。
二人とも言い過ぎた。
言ってはいけない境を越えたのだ。
1888年12月23日。クリスマス直前のその日。フィンセントはなじみの娼婦に箱を手渡す。自分を忘れないで欲しいと──。
フィンセントが家に帰ると、そこに警察が押し寄せて来た。寝ていたゴーギャンも驚いて飛び起きる。
ゴーギャンの目には逮捕されているフィンセント。そして辺りは血だらけだ。ゴーギャンは何が起ったか分からない。
「なにがどうしたっていうんだ!?」
「いえね、彼が女に送ったプレゼントが問題なんです。プレゼント箱には耳が入っていたんです。一体誰の耳なんだか」
ゴーギャンは身を震わせた。思わず自分の耳たぶに触れる。フィンセントの目の焦点は定まっていない。だが彼の右耳がない──。そして生々しい傷跡。
「彼の耳だ──」
「え?」
警察が慌てて確認すると、なるほど耳が切り取られている。
「……ていうと、この人は自らの耳を切り取って」
ゴーギャンはようやく分かった。フィンセントは天才だ。だが繊細すぎる。
自分との口論が彼の中に一つずつ蓄積されて行き、フィンセントは完全に異常の域に達してしまったのだ。
腹が立ったのなら、自分に殴りかかってこればいい。だがフィンセントはそうしない。自分の中に溜め込んでしまう。
彼はカミソリを手に取りゴーギャンへ襲いかかりはしなかった。
自分の身を傷付けたのだ。
誰を傷付けることなく。
それが彼の優しさなのだ。
「フィンセント。すまなかったな──」
その時、フィンセントの肩が少しばかり動いたが、何も話さず警察に連行されていった。