第97話 二人のポール
テオの生活に彩りが出来た。
ヨハンナはよい理解者であった。そして絵にも造詣が深い。兄フィンセントの絵をとてもよいものだと認めたのだ。テオはとても嬉しくなった。テオは彼女を愛称で呼ぶ。
「ヨー。兄は天才なんだ。だけど天才につきものの気難しさがあるんだ。そこを分かってやって欲しい」
「ええ。大丈夫よテオ。でも本当にすばらしい絵ね」
テオはそんな彼女を愛おしく思い、抱き締めた。テオの人生は動き始めたばかりだった。
◇
アルルのフィンセントは友人の来るのを心待ちにし、今日も絵を描いていた。
フィンセントは黄色い絵を好んだ。だからこそ、この黄色い家を借りたと言ってもいい。
大輪のひまわりの絵など何枚も何枚も気に入って書いた。まるで太陽のような美しいひまわりの絵を。
ふと──。
道の先に人が見える。こちらへ向かってくる。
この辺の人間ではない。服装が違う。あか抜けてオシャレな恰好。
まさしくパリの男。パリから来た男だ。
フィンセントは黄色い家から飛び出して、その男の名を呼ぶ。
「ポール・ゴーギャン!」
「やぁフィンセント。実は南の島に行こうと思っていたんだが気が変わった。君と一緒に絵を描きたくなったんだ──」
テオは──。
テオの願いは「ポールを兄の元に」というものだった。
テオにとってはポール・シニャック。
即ちポール・ヴィクトール・ジュール・シニャックのことに他ならない。
しかし、箱が願いを叶えフィンセントに差し向けたのはゴーギャン。
即ちウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンの方であったのだ。
黒い箱の陰謀。持ち主を破滅へ向かわせるための。私は“ポール”としか聞いていない。それが悲劇を生むなど黒い箱にとってはかまわないのだ。むしろそう望んで間違ったフリをしているのだから。
◇
テオの元にフィンセントからの手紙が届く──。
テオは期待していた。ポールとうまくやっていると。
たまに自分がムキになってしまうがポールは年下ながら大人だ。自分が恥ずかしいなどと反省文を送ってきたのだろうと思いながら手紙をあける。
「やぁテオ。ポールがこの黄色い家に来てくれた。毎日が充実している。ポールとはうまくやっているよ」
テオは一つだけ安堵の息を漏らす。よかった。ポールはうまくやってくれている。やはり黒い箱に願って良かったと思った、その時だった。
玄関のドアがノックされる。テオはその客に入るよういうと、その客はいつものように気安く入って来た。
「やぁテオ。うまそうな魚とワインを買ってきた。魚はフライにしよう。キッチンを借りるよ。フィンセントはいないのか? ああそうだ。アルルにいるんだったな。まぁいいか。一杯飲もう」
その客は、ポール・シニャックだった。
テオは驚く。先ほどの彼の言葉からアルルから来たわけでもなさそうだ。
ポールは部屋の中に入り込むと、他に酒の肴になりそうなものを捜した。
「干し肉もあるし、ナッツもあるのか。ワインの方が足らないな。おおこんなところにワインもあるぞ。飲んでいいよな」
「ポール、キミはどこから」
「え? 家からだけど」
ポールは油を火にかけながら答えた。
やはり。なにかおかしい。黒い箱は願いを叶えた。そしてフィンセントの手紙にもポールとある。
一体どういうことだろうと頭をひねった時。
郵便だ。手紙が来た。宛名にウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンの署名。
最初は普通にゴーギャンからの手紙だと思ったがハッとした。
「ポール・ゴーギャン……」
いつもゴーギャンと読んでいるから気付かなかった。こちらもポールだ。まさかと思い急いで手紙を読む。
「テオ。やはり我々は反り合わない。フィンセントと私は水と油だ。君に言われて気まぐれで来てみたが、ケンカばかりしてる。これでは長くもつまい」
やはり。箱に導かれたのはゴーギャンだったと気付いた。
しかもケンカ。
すでに共同生活が始まって数日経っているのであろう。
このままでは危ない。
フィンセントは精神に異常をきたして、ゴーギャンを傷つけてしまうかもしれない。そういう恐ろしさがフィンセントにはあるのだ。その間、ポール・シニャックは持って来た魚をフライにしていた。
「ポール」
「なんだいテオ」
「君、兄の元に行ってはくれないか?」
「あん? 別に良いけど。ちょうど旅行に行きたいと思ってたし」
「本当かい? それはよかった!」
「なんだ。それくらいで喜ぶなんて。キミは変なやつだな」
そう笑いながら揚げたてのフライをテーブルに置く。テオも嬉しくなってポールの手伝いをした。
「魚のソースはやっぱりこれだな。タタールソース。キミもそう思うだろ?」
「ああそうだな」
二人はテーブルに付いてワインを飲みながら何気ない会話をした。テオもポールの心配りに安心して酒を飲んだのだ。
それにフィンセントの手紙には「うまくやっている」との文言があった。一歩引いてるのかもしれないと思ったが違った。
それはフィンセントのいつもの強がりだったのだ。
刻一刻とフィンセントとゴーギャンの決別は揺るぎないものとなっていた。