第96話 安い願い
フィンセントは、カフェの二階に間借りすることを止めた。
最初は少しばかり高い家賃だって気にしなかった。いや気にしなかったと言えばウソになる。ガマンしたと言った方が適当だろう。
なぜガマン出来たか?
それはすぐにでも友人たちが集まってくれると思ったからだ。
しかしその全てはなしのつぶてだ。テオのところで止まっている。フィンセントを悲しませたくないと、断ったことを保留にしているのだ。
フィンセントはテオに手紙を書いた。自分の意志で出たから、寂しいことや失敗したことなど隠して。
強がった手紙だった。
「テオドロス。まだ友人たちは誰も来ない。当たり前だ。それは私の準備が遅いからだ。今までカフェの二階に間借りしていたのだが、そんなところに誰も来るはずはない。だから家を借りた。黄色い壁の素敵な家だよ。これならみんなすぐにでも来てくれる。それにここから臨む景色は最高なんだ」
裏事情を知っているテオは頭を抱えた。今の兄は緊張感で一杯だろう。こんなに張りつめていたら弾けてしまうのも早いかもしれない。
フィンセントの精神状態はその場その場で変動し、間違えたら思い詰めてしまう。そして今までの過去の出来事が覆いかぶさってダメになってしまうだろう。
一刻の猶予もなかった。
友人を一人でも兄の元へ──。
テオは黒い箱を取り出した。
黒い箱は笑うようにほのかに光る。
『願い事を言って下さい』
ポール・シニャックを兄の元へ行くようにしてくれ──。
そうすればフィンセントは救われる。今度は何をとられるだろう。これを最後にするんだ。楽な道は決して兄弟のためにならない。
だからこれを。
これを最後に──。
「ポールを……」
言いかけたときだった。
テオの家のドアをノックするものがある。
テオは手早く黒い箱に布をかけ、玄関へと向かいドアを開ける。そしてその人物の名を呼んだ。
「ゴーギャン!」
「ああ。テオ。実は別れを言いに来たんだ」
「え? どういうことだい?」
「私はパリに疲れてしまってね。南の島にでもいこうと思う」
「そういえば、君は前からそんなことを言っていたね」
「アルルへ行ったフィンセントと同じようなものだな。都会の喧噪を離れてのどかな場所を書きたいのだ」
「南の島。どこだい?」
「この世のパラダイスだ。タヒチだよ」
ゴーギャン──。
彼の志しはフィンセントと一緒かもしれない。しかし彼をアルルへ向かわせたらまずい。きっとフィンセントの精神状態はますます悪くなる。
こうして遠くに行くのならばもう生涯、フィンセントの精神は悪くはならないかもしれない。それならばそれでいい。
ポールならば。ポール・シニャックなら荒馬を乗りこなすようにフィンセントをいなしながら、フィンセントのことを分かってやれる。
テオはそう考えた。だが社交辞令に一応、ゴーギャンをフィンセントの元へ誘ったのだ。
「ゴーギャン。もし良かったら君もアルルへ行ってみてはどうだい?」
「まさか。フィンセントの元へ行ったら絵どころじゃない。ぶつかりあってしまうよ」
「そうだろうねぇ」
その時はそれで終わりだった。もう今生で会うことは無いかもしれない。
ゴーギャンは扉を閉めて出て行った。
南の島タヒチへ向かうために。
テオはゴーギャンを見送った後、すぐに布をどけて黒い箱を眺めた。
『願い事を言って下さい』
「ポールを兄の元へ行かせてくれ。兄に心の平安を与えてやってくれ」
『代償を言って下さい』
「君は今度は何をふっかけるつもりだ? しかし兄のためだ。善処したいと思う」
『それくらいだったら、体毛の五本でも頂ければ叶えて差し上げられますよwww』
──安い。
今までの感覚から言えば、かなり安い。
それはポール・シニャックも行く気持ちがあるからではないか? しかしそれを待っていてはいけない。確信はないのだ。
ここできちんと契約を結ぶのだ。それならば間違いが無い。
「それで叶えてくれ」
『叶 え ら れ ま し た』
赤い光りがテオへと一瞬だけ伸びる。
そして白い光りが、玄関の道の先へ。
それはほんの一瞬。
テオはホッとした。これで安心だ。フィンセントはまたよい絵を描くだろう。
◇
テオはよほど安心したのであろう。
今まで不安と戦い過ぎていた。独り身は辛い。
テオは生涯の伴侶、ヨハンナと婚約をした。