第93話 絵が売れた
次の日。店へと出勤。
テオの胸は高鳴っていた。兄の絵が売れる。その一心だった。入ってくる客を目で追う。最初は別な画家の絵が売れた。
テオの期待から外れたので落胆は大きかったものの、約束だ。契約だ。売れる。きっと売れる。
その時だった。シルクハットを被り見事な髯をたくわえた老紳士が急ぎ足で絵画のコーナーへと進み、大して絵を見もしないでステッキを上げてフィンセントの絵を指す。
「キミ! その絵をくれたまえ!」
「は、はい!」
これだ。とうとう来た。
フィンセントの絵の購入。きっと気に入ってくれる。
だが──。
とたんにテオに罪悪感が溢れ出す。気に入られたわけではない。魔法の力。箱の力だ。己の肉体の一部を削ったその代償。
絵を外してしばらく立ち尽くしていると、老紳士は急かす。
「キミ! 早くしたまえ!」
「あ、は、はい。申し訳ございません」
絵を包んで老紳士に渡すと、彼は無造作に受け取った。
「今日は客が来るからな。階段の踊り場に適当な絵が欲しかったのだ」
という理由──。
テオはしばらくその老紳士の背中を見つめていた。店を出て雑踏に消えていくまで。
箱は確かに願いを叶えた。
だが。こんなことはない。
絵は売れた。300フラン。三月分の食費ほどの値段。大金だ。
しかし心は晴れない。フィンセントは喜ぶかもしれない。売れたことを喜ぶかもしれない。
老紳士にしてはその他大勢の絵の価値だということを知らない限りは。
店の仲介料をとったら250フランだ。
それをフィンセントに渡すだけ。しかしなんと気持ちの重いことだろう。テオはうつむいてしばらく床を見て考えていた。
「あの──」
テオが考え込んでいると、いつの間にか横に老婦人が立っていた。
気品に溢れた少しばかり小太りな老婦人。
「すいません。何をお探しでしょう」
「つい先日からそこに飾られてた黄色い絵は売れてしまったのかしら?」
黄色い絵──。それはフィンセントの絵。
「あ、すいません。先ほど……」
「あらやだ。気に入ってたのに」
「え!?」
気に入っていた。
気に入ってくれていた人がいた──。
「そうなのね。残念だわ。他の買い物のついでに今日買おうと思っていたのに」
老婦人の言葉。テオは嬉しくて泣きそうになってしまった。
「あの、同じ作者の絵はございます」
「あらホント? どれかしら」
「こちらでございます」
「ああ、これもいいと思っていたのよ。おいくらかしら?」
「え? あの……」
「いただくわ」
「あ、ありがとうございます!」
テオは涙を流して老婦人に大きく頭を下げた。
「あらいやだわ。泣かれても……。どうしたのかしら? 私なにかおかしいこと言ったかしら?」
「いえ! とんでもありません。すぐにお包み致します!」
これは箱の力じゃない。
本当に絵に惚れている人。その老婦人から300フランを受け取る。
とても重い300フラン。先ほどと違って。
テオの心に暖かいものが沸き出して来た。
老婦人が絵を持って店を出る。それと同時にほっそりとして身長の高い、今どきのパリっ子と言ったお洒落な青年がテオに声をかけてきた。
「あのうスイマセン。あそこに飾られていた黄色い絵はどこに行きました?」
「え──?」
二人目。二人目の本当の客。
急ぎ過ぎた。自分の肉体を削って楽な道を選んでしまった。
本来であれば、あの絵は気に入ってくれた客が買ってくれたのに。
「実は売れてしまいまして」
「ああそうですか。気に入っていたので給料が入った今日、部屋に飾ろうと思い買いに来たのです」
涙が出そうな言葉。やはり兄フィンセントは天才だ。
今日だけで二人の人が心を引きつけられていたことが分かった。
「ひょっとしてあの絵も同じ作者の絵ですか?」
「──え? そ、そうです。私の兄の絵です」
「へぇ。あなたのお兄さんの。あれもすばらしいですね。買います」
「お、お買い上げですか?」
「ええ。あの絵のタッチが好きなんです。これでなくてはいけません」
テオは急いで絵を包んだ。それを嬉しそうに客が受け取る。
手に残った900フラン。フィンセントに渡すのは750フラン。紙幣だが、なんて重たい。価値のある大金だ。そしてフィンセントの絵を気に入ってくれた人からのお金。
先の魔法で叶えた老紳士。あれだって客が来るから間に合わせにという感じで言っていたが、誰かに見て貰えるのだ。
なんて素晴らしい。兄の絵が人々の目に深く、広く……。
テオは兄フィンセントにこの話をするのが楽しみだった。
ゴッホの絵は生涯で一枚しか売れなかったという定説がありますが、他にも売れていたという諸説があります。本作はその諸説を取り入れました。