第92話 願いを託して
フィンセントの絵は日に日に増えていった。しかし売れない──。
黒い箱の持ち主、テオは自分から兄フィンセントへと持ちかけた。それは考えた末のことだが、これから彼を苦しめることになってしまう。
「兄さんの絵を、店に置いてみよう」
「──それは本当か? テオ」
兄フィンセントは冷静そうに見えるが、嬉しいことはありありと分かった。そう。絵を店に置く。美術店であるグーピル商会へはたくさんの目の肥えた客が来る。そこに置けばこの素晴らしい絵はきっと売れるに違いない。
なぜ早くにそうしなかったのか?
それは怖かったのだ。フィンセントの描く絵はすばらしい。だが買うのは客だ。ちっとも目に止まらなかったらどうしよう。保証などどこにもない。しかしきっときっときっと売れる。
テオは確信して発言したのだ。
その言葉に、フィンセントは嬉しそうな顔をした後、またいつもの自信がなさそうな顔をした。
「私の絵など店のお目汚しだ」
「そんなことないよ!」
テオはすぐに叫んだ。自信の無い兄。誰よりも才能があるのに。
天才なのに──。
それがこの自信の無いのはどうだ。
ポール・シニャックの絵は性格がもろに絵に出ている。フィンセントの絵だってそうだ。暗く沈みがちだが生命がある。
命が宿っている。青が黄色が。それが一つ一つ重く塗り込められている。
そのよさはパリの人にきっと認められるんだ。
それを黒い箱は静かに笑うように見ていた。
笑うように──。
フィンセント・ファン・ゴッホはグーピル商会の絵画コーナーの目立つところに置かれた。
当時のパリで流行っている絵とは少しばかり違う。だがやはり絵から光るものがある。訴える力があった。多く人がその絵の前で足を止めた。
一瞬だったり。しばらくだったり。長い時間だったり。
しかし──。
素通りしてしまう。足を進めてしまう。やはりみんな流行りの絵を欲しがったのだ。
テオの思惑は上手く行かなかった。これほど魂に響く絵なのに誰も金を出そうとしない。
家に帰ると、フィンセントは部屋から飛び出して聞いてくる。
絵は売れたか──?
それにテオは力なく首を横に振る。そして毎日の励まし。
絵を飾ることで。絵を飾ったことで帰って二人の神経は少しずつすり減っていってしまった。
どうすればいい。
どうすれば──。
そんな日が続いた。
フィンセントはますますふさぎ込み、テオが帰って来ても出迎えなくなった。
テオが悪いわけでもない。
ならば誰が悪いのか。それは自分だ。自分にはなんの価値も無い。と。
テオの部屋のテーブルに置かれたオブジェ。黒い箱は知っていたかのようにテオを迎えた。あやしい光りをたたえながら。
『願い事を言って下さい』
「一枚でいい。一枚でもいいから兄の絵が売れればいいのに」
『代償を言って下さい』
「前に髪の毛何本かで兄をパリに呼んでくれたな。髪の毛ならばどのくらいだ?」
その質問には箱より警告音。『叶えられません』の文字が出ていた。テオは脱力した。それほど難しい願いだったのかと。
『尾てい骨という使用されていない骨があります。それを頂ければ明日にでも一枚絵は売れるでしょう』
テオはその文字に食らいついた。
「本当か? 本当に明日売れるんだな」
『ええ。もちろん叶えられます』
「その骨で願いを叶えてくれ」
『叶えられました』
一瞬だけ赤い光りがテオへと伸びる。
続いて白い光りがパリの街へ。
テオは安心した。久しぶりに心が解放された気分だ。
その日はぐっすりと眠ることが出来た。