第90話 せめて絵が売れれば
新しい知識は、新しい活力を与える。テオの兄であるフィンセントの画風は変わった。明るい色と、それに補色を隣接させることでより際立たせるという技法を身につけたのだ。
フィンセント・ファン・ゴッホのオリジナルな手法だ。黄色の明るさ。ブルーの美しい暗さ。
明るくも暗くもあるこの描き方に、テオも、友人のポール・シニャックも賞賛した。
パリに来る前は外国の異文化であるジャポニズムにも深く感動し、模写にも務めた。それがフィンセントを大きくしたが、パリもフィンセントを大きく育てた。
フィンセントは徐々に自信を蓄え、パリ在住の画家たちと交流を深めた。
やはり中にはこの気むずかしいフィンセントを煙たがるものもいたが、ポール・シニャックはうまく仲を取り持ってやった。
フィンセントの絵が上達するにつれ、テオとフィンセントの食卓も明るくなった。楽しい晩餐。テオは兄フィンセントのために叶えた願いに感謝した。
テオの兄のフィンセントも以前とは変わって、明るくなり、芸術家との交流もますます深まったが、その時間は短かった。
売れない──。
いくら描いても売れないのだ。
ものはいい。腕もいい。しかしパリ民はそれを認めようとしない。フィンセントは徐々に気鬱な状態になっていった。そこをテオとポール・シニャックはなだめる。
「兄さんは天才だよ。これほど素晴らしい絵を見たことがない」
「気にしなさんな。売れる売れないなんて芸術には関係ないよ。これはまさしく芸術だ。素晴らしい絵だよ」
しかし、フィンセントはその言葉を受け取らなかった。
「君たちは良い。仕事を人に認められてるからな。私はそうじゃない。同列に並べない人間なんだ。人から認められなければ無価値だ。無いのと一緒なんだ」
ポール・シニャックはテオと顔を見合わせ呆れたような顔をした。
「ボクたちが認めているのに? まぁいいさ。もっと気楽になると良いよ。空の高さでも眺めてさ。今日はこの辺で帰るよ。フィンセント。テオドロス。またね」
ポール・シニャックは明るい男だ。それが絵に現れている。
言うことなすこと気楽で奔放。そしてフィンセントの気難しさすら荒馬を乗りこなすようにいなしてしまう。年下の売れている画家。フィンセントはあからさまに嫉妬した。理解者である彼を。
「ああポール。本当は私は誰よりもキミのことを──」
フィンセントは涙を流してつぶやくが最後の言葉が言えない。
邪魔をするプライド。
窓からポールが去る姿を消えるまで眺めていた。ポールはそんなことは気付かない。気にしない。
それを見てフィンセントは思う。誰も自分を必要としていないのではないか?
パリに来るべきではなかった。と──。
テオの兄フィンセントはふさぎ込んだ。
弟であるテオにしてみれば、せっかく絵が良くなったのにまた落ち込んでしまったフィンセントが不憫でならない。
「せめて一枚でも絵が売れれば良いのに」
フィンセントはポツリとつぶやく。
フィンセントもテオに顔を合わせないように、時間をずらして食事をしたり、テオが出勤した後に絵を描いたりして、ますます鬱の渦の中に落ち込んでいってしまった。
テオは思う──。
兄は天才だ。それは作品に現れている。いずれ誰の目にも留まるに違いない。
それなのに、誰も見ようとしない。
「せめて絵が売れれば──」
兄と弟。思いは一緒であった。