第88話 兄のために
フィンセントと話せぬまま、テオは次の日出勤のために家を出た。
なんとかフィンセントと和解をしたい。そして、フィンセントにもっと自信をもってのびのびと絵を描いて貰いたいのだ。
フィンセントは人よりも認めて貰いたいという気持ちが強い。気持ちは間違っていない。ただ度が過ぎるのだ。
好きな女性に会いたい気持ちが強すぎて、逆に嫌われてしまった。だがその両親の前で蝋燭の火で手を炙った。僅かなその時間でもいいから会わせて欲しいと。
それが情熱。度の越えた情熱なのだ。
父と同じ聖職者になりたいと、炭鉱の労働者の世話をした。自分の衣服を与えた。自分の食事を与えた。だがついたあだ名は「変わり者」。つまり変人だ。一生懸命が報われない。
絵で生計を立てようとしたが父に咎められた。まともな仕事に就くようにと。しかしそれにフィンセントは癇癪をおこす。それで病院に入れる話まで出たがなんとかそこまでには至らなかった。
何もかも空回り。少しだけ。少しだけ斜め上なだけだったのだ。それが周りの人間を辟易させた。
気の毒な。ただやさしいだけの兄なのに。
フィンセントの弟であるテオは、自身の店の中で頭を抱えながら考えた。どうにかフィンセントに自信を持って貰いたい。そしてよい絵を描いて貰いたい。
この芸術の都パリはフィンセントを成長させるのにうってつけだ。
よい考えも浮かばずに家に帰ると、フィンセントは、窓辺に置かれた鉢植えをじっと見ていた。昔からそうだ。動植物が好きで、一日中観察しても飽きない。
「ただいま兄さん……」
「やぁお帰り。テオ」
昨日の剣幕はウソのように普通に返してくるフィンセント。テオは幾分ホッとした。フィンセントは一人でここに来て、不安なのかも知れない。知り合いなど誰もいない土地。
そんなところで自由に芸術活動など出来るはずも無い。
テオは、自分が黒い箱に願ったことで、フィンセントに不自由な思いをさせてしまったと思った。
「兄さん。パリは芸術の都さ。きっと兄さんの創作活動の役に立つところだよ。街に出てもっと観察してみてはどうだろう?」
「──そうだな。その通りだな」
フィンセントの返答にホッとする。フィンセントはきっと自立して絵を描いてくれるだろうと思った。
しかしそれからしばらくしても、フィンセントが家から出ることはなかった。家の中の静物を気晴らしに描くだけ──。これでは前と同じだし成長するわけがない。
だがフィンセントは鼻歌交じりで暗いタッチの絵を描き続けた。
テオの部屋の机の上にある黒いオブジェは静かに光を放つ。
『願い事を言って下さい』
「兄はもっと交流すべきだ。他の芸術家と……。そうすればもっともっと才能が伸びる。今のままでは絵が死んでしまう」
テオは黒い箱を前にフィンセントの愚痴をこぼす。この生命体ではないものの前だと、つい肉親への思いを漏らすことが出来るのだ。
「どうすれば兄さんは外に出てくれるだろう? 印象派の人々の絵を学べばいいのに」
男はポツリと箱に向かってつぶやく。
『私ならばそれを叶えて差し上げられますよ──』
黒い箱の誘惑。人の出会いにそんな言葉は不要だ。しかし、テオにとっては魅力的な言葉。大好きな兄をもっと人から注目させるべき言葉だったのだ。
「叶えるって、前にも言っていた肉体の一部か。残念だがボクは病弱な身だ。キミの気に入るものなど提供できないだろう」
『人間には生きていく上で不要なものがたくさんあります。また二つある臓器も。二つあるのだから一つで本来は充分なのです。そのいずれかを私に下されば、きっと願いが叶うでしょう』
テオは最初はこの誘惑に乗るまいと思った。苦労せずに楽をするのはいやだからだ。
しかし、ふぃんのことは努力してもどうなるものでもない。本人ではないのだから。
そして黒い箱の言葉。不要なものならいいのではないかという考えに至った。
「ボクには何を提供すれば良いのか分からない。それを出して生活に支障がないのならば別に構わないと思うがどうだろう?」
『もちろん。それは虫垂という部分で、今の人類には不要な内臓です。痛くも苦しくもなく取り除くので問題はありません』
「そうか──」
しかし、少しばかり悩んだ。やはり抵抗があったのだ。
ワインをグラスに注いで煽る。
細くため息をついた後でテオは決心した。
「じゃぁ頼む。ボクの尊敬する兄なんだ。兄に印象派の人物を友人として会わせてやって欲しい」
『叶 え ら れ ま し た』
赤い光りが男へと伸びる。
だがそれはほんの一瞬──。
続いて白い光りがパリの街に向かって発射される。それは一つのところではない。光りの照射は数度に及んだ。
「これで良かったんだ」
テオは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。