第86話 兄との再会
次の日、テオは自分の店へと出勤する。真面目に誰よりも早く、店のカギをあける。扉を開けてふと気付いた。昨日のあの黒い箱。あのオブジェを家に置いて来てしまった。
あれがお客さまの忘れ物だったらどうしようと上着のポケットに手を突っ込むと、手に当たる感触。掴んで引き抜いてみるとそれはまさしく黒い箱だった。
テオは逆にホッとした。
「ああ、やっぱり夢だったんだ。店でワインを飲んでからの記憶が曖昧だ。最近は良かったが気付かないうちに体調が悪かったのかもしれない」
テオは箱のことを他の従業員に尋ねてみようと、もう一度ポケットへと押し込んだ。
テオが出勤してしばらくすると、従業員が入ってくる。テオはそれぞれに挨拶を交わして黒い箱のことを聞いてみたが誰も知らなかった。
「……となると誰かの忘れ物だったのかなぁ」
「さぁて。でも不思議な箱ですね。オブジェですかね? あ、そうそう。支店長宛に手紙が来てました。朝ポストを見たら入っていたんです。どうぞ」
「そうか。誰からだろう」
「いつもの兄上さまからですよ」
「なんだって!? アントウェルペンにいる兄さんから!?」
従業員は少しばかりいやな顔をする。それはテオの兄のイメージが悪いから。
彼は同じグーピル商会のハーグ支店で働いていた時期があったが他の従業員と反りが合わず辞めてしまったとも解雇されたとも。またこの支店長である弟のテオを頼って無心をするという噂があって、誰しもよく思っていなかったのだ。怠惰に売れそうもない絵を書き、いい歳して学校に通っているとも。
だがそんな従業員をよそにテオはうれしそうに手紙を受け取って宛名を見る。
兄であるフィンセント・ファン・ゴッホの署名──。
テオはその手紙を急いで開け中身を読んだ。
「テオドロス。私は今夜行列車に乗ってそちらに向かっている。考えた結果だ。学校でもう習うことなどない。キミのところに行くよ。正午からルーブルで待ってる。だからキミに迎えに来て欲しいんだ」
手紙を最後まで読み終えたテオは嬉しくて手紙を抱いて叫んだ。
「兄さんが来る!」
しかし、それを見ていた従業員は眉をひそめる。そして仕事に行ってしまった。テオは従業員たちに今日は早退する旨を伝え、兄を迎えようとルーブルへと向かった。
その道筋、テオは思い出した。ポケットに入れた黒い箱。
これは願いを叶えると言っていた。先ほどまでただのオブジェだったそれをもう一度出して見てみる。
『願い事を言って下さい』
「わっ!」
夢ではなかったと思った。勉強中の兄フィンセントがそれをおっぽり出してこちらに来たのはこの箱の魔力だと。
兄フィンセントには悪いことをしたかも知れない。しかしこのパリで他の芸術家たちと触れあった方が作品にもっと影響力があるはずだ。
テオはルーブルへと急いだ。
テオが駅で待っていると懐かしい顔。尊敬する肉親、画家である兄のフィンセントが荷物を抱えてやって来た。大きな絵も一つ布に包んでいるようだ。
「やぁ兄さん!」
「やぁテオ。誰も私を認めてくれない。誰も。ついキミに甘えたくなってしまったのかも知れない。しばらくおいてくれないか?」
「もちろんだよ。ボクは嬉しい! さぁ美味しいランチでも食べよう」
「そうだな。馳走になるよ」
久々の再会に二人は良く笑って談笑しながら文化の都である、ここパリで食事をした。
いつもは気難しい兄だが、こうして月日が経って会ってみればなんとも優しい兄ではないかと、テオは嬉しくなった。
この兄を連れて、自分の家へと向かう。同居するのだ。異国のパリで肉親は心強い。
その道すがら、早く秘密が言いたくて仕方なかった。願いを叶える箱。これを兄に勧めたらどうかと。
しかし迷いが生じる。
兄は快く受け取ってくれるだろうか?
こんなものに頼らなくてはならないと思ったか!? といわれるかも知れない。それはもはや私の絵ではない。といわれるかも知れない。
その可能性のほうが高い──。
この魔法の箱を兄に持たせたら兄弟仲がこじれるだろう。それならば影で力になった方がいいとテオは考え、やはり言わないことにしポケットから出さないことにした。
主人公の『テオドロス・ファン・ゴッホ』はフランス語では『テオドール』となりますが、本作では『テオドロス』で統一します。