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ク ロ い ハ コ  作者: 家紋 武範
テオと天才篇
85/202

第85話 見たことが無いオブジェ

 1880年代パリ、モンマルトル大通りグーピル商会パリ支店。美術店である──。

 その日も夕暮れとなり、従業員は真面目に働く支店長に別れを告げる。


「支店長。お先に失礼します」

「やぁ。お疲れ様。明日も頼むよ」


 その後店に一人となった彼は、商品を一つ一つチェックし窓や出入り口の戸締まりをして、その日の売り上げを計算する。


 真面目で誠実な男だ。


 男は売り上げが合っていることを確認し今日の自分の仕事が終えたことに安堵のため息をもらす。


「はぁ。やれやれ。ボクも帰るとするか。途中のカフェでワインでも飲もう」


 彼はそれを楽しみにしてにこやかに立ち上がって、出口へと向かう。カギを開け、出ようとすると商品陳列棚に見慣れないものがあった。


 黒く継ぎ目のない立体物。

 若干オブジェとして趣のある品物だと思ったが仕入れた覚えが全くない。素材もよく分からなかった。


「さっき点検した時こんなものあったけ? お客様の忘れ物かな……?」


 しかしその割には新品同様で汚れや傷などない。やはり商品なのかも知れないと思い、何の気なしにコートのポケットへ押し込んだ。明日、忘れないように従業員に聞こうと思ったのだ。


 何気ない──。

 それだけだった。


 カフェにたどり着いた彼は軽食とワインを頼んだ。まわりにはファッションに明るい人間たちが楽しそうに談笑して酒を飲み合っている。


「やっぱり、パリは違うな。故郷のズンデルトとはまるで違う。食事は旨いし、人や文化だって。兄さんも来れば良いのに。そうすれば才能をもっと伸ばすことができる」


 その時、男の上着のポケットになぜか違和感を感じた。彼はそれを取り出す。

 手のひらサイズの小さなオブジェ。芸術的と言えば芸術的だ。不思議な魅力にしばし魅入っていた。


「ホントに不思議なオブジェだな。素材は何なんだろう?」


『言語:フランス語』


 突然の文字の表示に驚き、男は小さく声を上げる。しかしここはお洒落の町だ。取り乱せば格好が悪い。しかも自分は商会の支店長の身分。それがカフェで声を上げたなどと噂になるのも怖かった。


「な、なんだこれは。光る文字? 見たことないぞ。こんなの」


『願い事を言って下さい』


「ね、願い事!?」


 少しばかり素っ頓狂な声を上げてしまった。パリ民が一斉にこちらを見る。

 オランダ人の田舎者。そんなふうに思われるのが怖く、すぐに黒い箱をポケットに押し込んだ。

 落ち着きを払って、ホワイトソースがかかった魚を食べ、ワインを飲んで清算し店の外へ足早に急いだ。


 とりあえず一人暮らしの家へと帰り、小さなテーブルに黒い箱を置いて、もう一度顔を近づけた。しかし文字は消えている。


「気のせいか……? 何かの写り込みだったのかな?」


 男は目を細めてみる。気のせいかと顔を離すと、黒い箱はほのかに光り出す。


『この箱はあなたの願いを叶える箱。使い方は、願い事を言う→その代償に箱はあなたの体の一部を頂きます。あなたの体がなくなれば願い事は終了です』


 黒い箱の解説。男は見たこともない光景に目を丸くした。箱の解説が頭に入ってこない。だが箱は男のそんな様子を理解し、もう一度解説文を流した。


「願い事叶える……。まさかそんなものが。おとぎ話の妖精のようなものか? 箱に姿を変えて?」


 男はこの不思議なものを、科学では理解できないものだと納得した。そして願い事。考えてみるものの、それほど叶えてほしいものなどなかった。


「せっかくだが、叶えて欲しい願いなどないな。たまに具合は悪いことがあるが、それはそれだし、仕事にも不満はない」


『お兄さんは?』


 男の肩が少しだけ震える。この男には兄がいる。尊敬する兄だ。いわゆる天才でその夢に向かって一生懸命なのだが、世の中には認められない。その兄のことがどうしても不憫でならないのだ。

 それだけがこの男の心の引っ掛かりであった。


「な、なるほど。さすが魔法の箱だな。兄さんのことを知ってるなんて。出来ればこの芸術の中心地パリに来て欲しいとは思うが。兄さんのことだから来てくれないと思う」


『代償を言って下さい』


「代償? そう言えば体の一部とか言っていたな。考えてみればそんな危なっかしいこと出来やしない」


『その程度なら、髪の毛3本で叶えられますよ』


 髪の毛3本──。

 安価だと思った。

 そのくらいで願いが叶えられるのなら試しに願ってみても良いなと思ったのだ。


「じゃ、髪の毛3本で、兄をこのパリに来させて下さい。って感じか?」


『叶えられました』


 その文字が出ると、黒い箱から赤い光りが男へと伸びる。続いて白い光りが遠くへ──。しかし部屋を見渡しても尊敬する兄の姿はなかった。


「な、なんだ。兄さんはいないぞ? それに今の光りって? なんだろう。ワインに酔ったのかな。これは夢なのかもしれない。とりあえず寝よう。夢の中で寝るのもおかしいけど」


 男には今日見た黒い箱による不思議な出来事が何なのか分からない。赤い光り。白い光り。

 叶えられたというのに肝心の兄はこのパリにはいない。腑に落ちないまま、ベッドに横になり眠りについた。


 この黒い箱の持ち主となったのは、オランダ人のテオドロス・ファン・ゴッホ。愛称はテオであった。

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