第74話 裕の本懐
タクシーはマンションの前に到着し、茜音はそこから降りると急いでエレベータに乗り込んだ。
そして自分の部屋の前に立つ。なぜか物音がしない。裕は出て行ってしまったのだろうか。
カギを開けてドアノブをひねると、部屋の中は真っ暗だった。通路の灯りで茜音の姿が見えたのであろう。
ベッドの上から落ち着いた大人の声が聞こえた。
「おかえり。アカネ」
裕はベッドから降りて玄関先へ向かう。茜音は急いで部屋へ上がり込み、わずかな灯りを頼りにキッチンへと走った。
「近寄らないで!」
裕が茜音へと近づくと、振り向いた彼女の手にはギラリと光る包丁が握られていた。それが裕へと向けられている。
「どうしたの? アカネ」
「ダメよ! 来ないで!」
茜音は泣いていた。
愛しい裕。可愛い裕。
筋肉質で頼りがいのある肉体。
だが、軽んじてしまった。
作られた魂を馬鹿にした。
それが為に裕は曲がって成長してしまった。
そうしたのは自分のせい。
真っ直ぐに自分だけを愛してくれる邑川裕。
どうしてこうなってしまったのだろう。
なぜ二人で正しく生きられなかったのだろう。
それは自分の過ち。
ここに警察が上がって来れば裕は逮捕されてしまうだろう。
そしたら裕は何も答えられない。
そしてアイドルの顔。
たちまち大問題になる。
本物にも迷惑がかかる。
この状況を打破するには黒い箱の力が必要なのだろう。だが自分にはもう提供するべき体の部品がない。だからそれを解決する方法は一つしかない。
茜音は包丁を裕に向けながら、黒い箱がいるであろうベランダへと体を移動させようとした。だが、裕は平気な顔をして茜音に近づこうとした。
「オレ平気だよ。アカネに刺されても切られてもいいんだ。ただそばにいたい」
そう言って裕は手を広げて女を抱きしめようと近づいた。
「ダメだって! ユタカ! もうダメなの!」
茜音だってそんなことはしたくない。
もしも、裕がいなくなったら自分だって。
自分自身だってこの世界にいる意味がない。
だが自分が先に死んではダメだ。
裕は一人では生きて行けない。
自分が、自分が彼を消さねば。
だが裕は茜音のそんな思いなど知らない。思い切って抱きつこうと駆け寄った。
茜音は包丁を──。
自分のノドに向けた。
「近づかないで。近づいたら私死ぬ」
「だ、ダメだよ。アカネ!」
茜音は裕の愛する心を利用した。
そうするしか他なかったのだ。
茜音は包丁を自身の喉に当てたまま裕の横をすり抜けてベランダまで走った。
そこにはぼんやりと光る黒い箱。
茜音はそれを掴んで自分の顔の前まで引き寄せた。
『願い事を言ってください』
茜音は息を飲んだ。そして涙を流す。
消える。消える。裕が消える。
そんなのは嫌だ。
自分も愛している。
自分が作った愛らしい人。
でも傷つけた人。
それを覚えて暴力をふるうようになってしまった人。
警察に捕まってしまう人。
「裕を──」
次の言葉がでない。
後ろにはすでに裕が立っていた。
「アカネ。オレをどうするの?」
その言葉にワッと涙があふれだしてくる。
しかし、言わなくてはダメだ。
「裕をキャンセルしてください。お願いします。お願いします。お願いします──」
『キャンセル──』
黒い箱が止まった。
なぜか止まってしまった。
キャンセルすることなど容易いことだ。
なんなら今までの物件のキャンセルは食い気味に行ってしまっている。
だが、我が子である裕を消してしまうことなどできるはずもない。
黒い箱の面の部分に『キャンセルされました』という文字が出て来ては消える。
黒い箱の意思で強引に打ち消しているのだ。
『キャンセルされ キャンセルされまし キャンセルされ キャンセルさ@0,ita黛鸚jkdADs催at飯anす&vi¥_』
その内に遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。こちらに向かってきている。
真っ暗な部屋だ。外の灯りが良く見える。当然パトカーの回転灯も白いビルに反射して遠くからでもよく見えた。
「お願い! 裕をキャンセルしてぇ~!」
しかし、黒い箱にはどうしてもできなかった。
壊れたように訳の分からない文字の羅列をただただ並べるばかりだ。
その内に茜音の頭の上から裕の腕が伸び、黒い箱をひょいとつまみ上げた。
裕は黒い箱を取り上げたのだ。
「アカネ。怖い思いをさせてごめんね。だからオレはキャンセルなんだろ? ママ。最後にオレの願い事を叶えて欲しいんだ」
『願い事を言ってください ……ダメ。ダメだよユタカ。母さんに願ったらダメ。ダメなんだよ……』
「オレの命を使って、アカネのキズを直してあげてください。オレが産まれるの前の元通りのアカネにしてあげてください」
『叶えられました。 ダメだ! 裕!』
黒い箱の意思がそうさせたのか?
それとも、自動的にそうなってしまったのか?
ともかく、黒い箱から白い光が伸び茜音の体を明るく照らす。
だがそれは一瞬。
続いて、裕に向かって赤い光が伸びる。
裕は笑顔で茜音と黒い箱に手を振った。まるでコンサートが終わった時の邑川裕のように。
裕は消えてしまった。完全にこの世から消えた。そこには傷の治った茜音と黒い箱だけがあるだけ。
『;;;;;;;;;;;;;;;』
黒い箱には大量のセミコロンがただただ流れ続けた。
それと同じように茜音の目にも涙が。
人間と生物ではない箱。
それが同じように号泣した。
二人の愛した数日の命しかなかった裕はこの世界から消えてしまったのだった。
やがて部屋のドアが警察によって開けられた。
しかし、そこには容疑者である裕はいなかった。
そんな男は元々いないことになってしまったのだった。
『…………バカな息子』
黒い箱は茜音の部屋を出た。
相変わらず口汚く人間を罵っているようだが今回の言葉には悲しい重い思いが乗せられているようだった。
黒い箱のルール。黒い箱が持ち主から離れるとき。それは持ち主の体の全てがなくなるか、持ち主が誰かに譲渡するか、黒い箱が持ち主を見限るか──。
今回は持ち主を見限った。しかしそれは悲しさのあまり……という形であったのだろう。
人は目に見えないものを追い求める。
少年も地球にはないものにあこがれを持っていた。
次回「少年とUFO篇」
ご期待ください。