第73話 停止
その少し前。裕は目を覚ますとそこに茜音がいなかったので飛び上がった。辺りを見回すがやはりいない。怒りで震え体が強張る。
ポスターの男の元に言ったのかもしれない。裕の腹の中は燃えそうに熱くなった。
「バカ! バカ! アカネのバカ!」
裕は癇癪をおこし、そこら中の家具に当たりつけ引き倒した。イス、テーブル、チェスト、ドレッサー。枕を破ると、中に敷き詰められた羽毛が飛び散った。部屋の中はボロボロの惨状だ。
裕は外に出たことがない。しかし、茜音がいつも出て行く場所は玄関のドア。トイレと同じようにドアノブをひねったがドアが開かない。
茜音が部屋を出る際にカギをかけていったのだ。
部屋の中からカギを開けることはできる。だが裕にはその知能がなかった。
だが裕には別な方法があった。
彼はベランダへのドアをあけると、そこには世界が広がっている。
これが外だ。ここから出られる。
裕はベランダから身を乗り出して地上に降りようとしたのだ。だがその裕の横で激しく点滅するものがあった。
黒い箱だ。
外に出されたきり、箱はここで大人しくしていたのだ。裕がそちらに顔を向けると黒い箱に光の文字が流れ出す。
『ユタカ。そこから下におちるとしんじゃうんだよ』
「そうなの? でもママ、アカネがどこかに行っちゃったんだもん」
『とにかく落ち着きな』
「うん、そうだね」
裕は母である黒い箱にたしなめられ落ち着きを取り戻し、部屋に戻った。黒い箱もそれについていこうとしたが、裕はそれを止めた。
「ダメだよママ。ここはぼくとアカネの部屋なんだから」
そう言ってドアにカギをかけた。その時、ふと気付いた。カギだ。ドアにもカギがあるのかもしれない。
そう思ってドアに行こうとすると部屋の灯りが全て消えた。
実は茜音がスクランブルのチケット欲しさに電気料を未納にしていた為に送電を停止されたのだ。時刻は夕方。まだ完全に暗くなっていない。
しかし、裕はパニックに陥った。何度も何度も電気のスイッチを入れるがどこにも灯りがつかない。大好きなテレビもつかないのだ。
茜音も帰ってこない。
裕は恐ろしくなってベッドの毛布にくるまってガタガタと震えた。
何が起こったのだろう?
分からない。
今までこんなことはなかった。
窓の外には灯りが付いている。
自分の部屋だけだ。何か恐ろしいことがおきたのだと思った。
そしてシンと静まり返る部屋で考えた。
その時間は充分にあった。
自分は叩かれて嫌だった。
水をかけられて嫌だった。
床を引きずられて嫌だった。
茜音だってそうだ。
きっとそうに違いない。
愛するものを叩くことなど普通のことだと思ったがそうではなかったのだ。
茜音を殴ってしまったことを後悔した。
だから逃げ出してしまったのだと。
裕はまた成長したのだ。
大人の心を持つようになった。
次第に気持ちも落ち着いてきた。
部屋にはすでに夜の帳が降りて真っ暗闇となっていた。裕はキッチンへと向かい、銀色にわずかに光るカランを押し下げた。
だが、水もでなかった。
こちらも未納で停止されたのだ。
「そうか。お水もダメなんだな」
裕には何も出来ない。何も。
電気や水が止まったのはきっと神様からの罰なんだろうと思った。
裕は茜音が帰ってくるのをこの暗い部屋で黙って待つことにした。大好きな茜音を殴ってしまって出て行かせた。反省の意志を示すことにしたのだ。もしも死んでしまうならばそれはそれで構わない。裕は玄関があるであろう方向を見つめながら、ただベッドの上に座って茜音が帰るのを待った。
その頃、茜音は病室を抜け出し顔を髪で隠しながらタクシーに乗り込み家路へと急いでいた。
裕のいる部屋へ。
裕は怒るかもしれない。
だがかまわない。
自分にはやるべきことがある。裕をモンスターに変えてしまったのは自分だ。このままいけば自分は殺されてしまうだろう。自分を失ったら裕は餓えて死ぬだろう。
そして大谷。彼は自分の惨状を見て、警察に通報するだろう。そしたら終わりだ。邑川裕が二人いることがバレてしまう。
戸籍も国籍も持たない人物なのだ。
「キャンセルを……」
彼女はタクシー内で一言つぶやいた。