第71話 知性を
その内に、部屋のドアが開く。茜音が帰ってきたのだ。裕は血走った泣きはらした目を見開き、玄関に走って茜音の腕を掴んだ。
「痛い!」
そう叫ぶ茜音を構わず無言で引きずるように寝室に連れて行く。そこには茜音が大事にしていたスクランブルのグッズの残骸。茜音は「あっ」と叫んだが、裕は復讐の鬼のように茜音を睨みつけた。
「これなんなんだよ。アカネはぼくが好きじゃなかったの? こんなわけのわからないもの!」
そう言ってグッズの一部を掴んで茜音に投げつけた。茜音は悲しくなって泣きながら抗議する。
「裕、どうしてこんなことするの? やめてよぉ」
「うるさい!」
そう言って彼女の頬を殴りつけた。叩くではない。殴る。拳を固く握って女の頬に叩き入れる。
成人男性の力だ。しかも裕は加減がわからない。女は衝撃で床に倒れ込んだが裕は容赦をしなかった。
「こんなもの! こんなもの!」
そう言いながら顔を殴りつけた。鼻と言わず、口と言わず。顔面に受ける衝撃と床にぶつかる後頭部。茜音の顔は血で真っ赤になり気を失ってしまった。
◇
茜音が目を覚ますと、裕が濡れたタオルで顔を拭いていてくれた。だが顔がしみる。頬や唇は腫れ、歯が数本折れていた。
痛くて鼻で息が出来ない。どんな顔になってしまったのか、怖くて鏡が見れなかった。
裕にしてみれば殴ることなど普通だと思っている。自分は産まれてすぐに殴りつけられた。水をかけられた。床をひきずられた。言うことを聞かないならば殴ってもいいのだ。
しかし茜音の顔は大変に痛ましい。それを拭いてやっている。櫛で髪の毛を梳いてやっている。
「アカネごめんね。でもアカネが悪いんだからね」
優しい。だが茜音はとうとう恐ろしくなった。力の加減の分からない裕にそのうち殴り殺されてしまうのかもしれない。逃げようと思っても体に力が入らなかった。そして痛い。肋骨が折れているのかもしれない。
「裕……。私、買い物に行ってくる──」
そう言ったが、裕は不機嫌な顔をして茜音に体重をかけて馬乗りになった。
「いたッ!」
「ダメだよ。アカネ。そう言ってあの男に会いに行くんだろ? ここにいなよ。ぼくと一緒に仲良く暮らすんだ。いいだろ? あんな男なんて」
裕はそのまま茜音をキツくキツく抱きしめた。茜音を愛する気持ちを伝えたかったのだ。しかし、茜音には鋭く刺すような痛みの方が大きい。
苦悶の表情を浮かべるしかできない。裕はそれがかわいそうで尚もキツく抱きしめるのだった。自分がそうされたいように。愛しているからこそ強く──。
苦痛が大きかったがいつしか眠っていたようだ。いや痛みによる気絶だったのかもしれない。女は目を覚ますと朝だった。
会社に行かなくてはいけないが全身が痛くて起き上がれない。そして、裕が体を密着させていた。茜音は少しずつ体をスライドしてベッドから出ようとした。
すると裕が気付いたように目を覚まし、腕を思い切りつかんだ。
「痛!」
「どこに行くの? アカネ。ボクとここに居るんでしょ?」
「だ、だって会社に行かないと……」
「なにそれ。ボクだって行ってないよ。大丈夫だよ。一緒にいようよ。一日中ここにいて、テレビを見て過ごすんだ。楽しいよ」
裕は産み出されてから娯楽がそれしかない。労働など知らない。何のためにするのかわからないのだ。
自分の世界はこの部屋だけ──。
そして大好きな茜音がいる。思い通りにここにいる。それが裕にとっては最高の楽園だった。
裕は動けない茜音にキスをして、体中をまさぐった。愛する気持ちが爆発しそうだが裕には知識がない。それ以上の進展はない。ただ茜音の体に自分の身を密着させた。
愛おしくて仕方がない。茜音を愛する気持ち。キスをして抱きしめてを繰り返すだけ。時間だけが経っていった。
寝たままの茜音に裕はピーナツバターを塗ったパンを食べさせた。身を抱き起こして水を飲ませた。
起きるのはトイレの時だけ。
しかし、そんな裕にとっての楽園が長続きするわけが無い。まず食パンがなくなった。ピーナツバターもなくなった。
「何か買ってこなくちゃ、ダメだよ。二人とも死んじゃうよ」
と、茜音が言っても裕は許さなかった。そんなことを言えば裕の眉が吊り上がり、鬼の形相となる。だが愛している茜音だ。裕は怒りを解いて笑顔になる。
「ダメだよ。アカネ。そんなこと言って、あの男に会いに行くんだろ? アカネはボクだけの恋人なんだ。それに、お腹がすいたらお腹いっぱいにお水を飲めばいいんだよ」
そう優しく茜音に言い聞かせたが、これでは二人でただ死を待つだけだった。
最初の数日はお菓子があった。子供の裕は初日は満足するだけ食べてしまったがこのままではあっという間に無くなってしまうと思ったのだろう。適度に分け合って食べたがそれもなくなった。
裕は冷蔵庫を開けて食べられそうなものを探した。裕には調理ができない。一枚のスライスチーズ。数枚のプレスハム。ピーナツバターも少量だが舐めればいいと思っていた。
その様子を茜音はベッドの上から見ていた。裕の後を追ってベッドの下から、黒い箱が転がっているのが見えた。茜音は小声で黒い箱をベッドの上に呼び寄せた。
黒い箱は気付いて、茜音のベッドに転がりながら近づいて来た。
今しかない。裕が自分から離れている今、願い事を言うのだ。
『願い事を言って下さい』
「アンタ、裕の知性を上げれるって言ってたわよね」
『はい』
「残りの卵巣一つで裕の知性を──」
そこまで言ったところで、黒い箱はつかまれて茜音から引き離された。そこには裕が立っていた。
「ダメだよ。アカネ。ママに変なこと言っちゃ。ボクを作った時のようにまたお願いするつもりだったの?」
裕は知っていた。自分が茜音の願いから作られたことを。裕は黒い箱をもったまま、ベランダへのドアを開けそこにあるエアコンの室外機の上に黒い箱を置いた。
「ゴメンね。ママ。だってボク、アカネと二人でいたいんだもの」
そう言ってベランダのドアを閉めた。そして茜音に全ての食料をあげた。
「ボクはいいんだ。アカネ。たくさん食べて早く元気になってね」
そして愛する茜音に抱きついて、その横で寝た。