第69話 二人の裕
茜音は財布を持ち、赤くなった頬を手で押さえながらハンバーグのソースで汚れた服のまま外に買い物に出ていた。
弁当を買った店はすでに品切れで同じものは買えなかったが、しばらく行くとコンビニがあり、そこで類似ではあるがハンバーグの弁当を見つけたので買った。
また、スライスチーズも買い、合わせてお菓子とジュースなどの子供が好みそうなものを揃えて店を出た。
「あれ?」
「……ああ……」
同僚の大谷だった。全くの偶然。あまり知り合いに見せたくない姿だった。
「おいおい。どうしたの? 服も着替えないで。ケンカ?」
余りにも核心を突くような質問。こんなこと人に言えるはずがなかった。
「ゴメン。なんでもない。気にしないで」
大谷はそう言う茜音の手を握って行くのを止めた。
「なんでもないわけないだろ? 殴られたのか? DVなのか?」
「違うよ」
「だって、殴られもしなきゃこんなにならないだろ?」
そんな言葉に茜音はつい涙を流してしまった。幸せな部屋が急に怖い場所になってしまった。
どうしてそうなったのかなんて考えてない。今はまず裕を満足させる為の買い物のことしか考えてなかったのだ。
「ゴメン。放して」
茜音はそう言って、大谷の手を振り切って部屋に走っていった。大谷はその後ろ姿を黙って見守るしかなかった。
茜音が部屋に入ると、すぐに裕は詫びてきた。
「ゴメンね。アカネ。ゆーたんわざとじゃないんだよ」
そう言って申し訳なさそうに頭を下げた。茜音もホッとした。いつものカワイイ裕だ。お腹がすくとイライラする。子どもだからそれが顕著に現れたのだろう。
きっとそれだ。満足できなかったから力の加減が分からなくて暴れただけだ。
裕と茜音はもう一度食卓についた。
茜音が出したハンバーグ弁当に喜ぶ裕。しかし茜音の手に殴打された跡がある。それに裕は気づいてその手を優しく握った。
「アカネ。痛かった? ゴメンね」
茜音は愛しい裕の本気の謝罪を受け取って思わず泣いてしまった。裕は育っている。人の痛みが分かると思ったのだ。
茜音は心配そうな裕の顔を見て涙を拭き食事をするように促した。
そして、スライスチーズの包装をむいて渡すと喜んで食べた。茜音も同じように一枚口に入れる。微笑ましい食卓だった。
二人は仲良くテレビを見ることにした。裕はアニメが好きだ。真剣にじっと見ている。しかし、それも終わってしまった。
茜音は歌番組なら喜ぶかもしれないとチャンネルを回した。するとそこにはスクランブルのメンバーが映っていた。
裕との生活が楽しくて調べていなかったが、今日はスクランブルが出演する日だったのだ。何しろ新曲を発表したばかり。当たり前と言えば当たり前だった。
裕はしばらく大人しく見ていたが、歌が始まると嬉しそうに手を叩いた。
「あ! この歌知ってる!」
そう言って、テレビに映るメンバーたちと大声を出して歌った。目の前で曲付きの生ライブだ。
体育座りをしながらだが、裕は一緒にスクランブルのメンバーと共に歌っている。
それだ。茜音はそうして欲しかった。スクランブルの邑川裕に、そばで歌って欲しい夢。それが今まさに叶っている。
なんて楽しい生活。裕は純粋に茜音のことしか愛していない。そして隣で持ち歌を歌う。最高の気分だった。
だが、その歌がピタリと止まる。裕の顔が険しい。それもそのはずだ。スクランブルの邑川裕がアップで自分のパートを歌っていたのだ。
裕は立ち上がり、洗面台に走って鏡を見た。
まぶたを。鼻を。頬を。唇を──。順繰りに触っていった。
鏡の端には茜音が映っていた。裕の目がそちらに移る。そして鏡を見ながら尋ねた。
「テレビに……。ゆーたんそっくりなのがいる」
「う、うん……」
「あいつ誰? ゆーたんじゃないよね」
「うん……」
「ゆーたん、あいつの歌も知ってる。なんで? なんでそっくりなんだ? ゆーたんは……。ゆーたんはママから産まれた。あいつは誰? なんなんだ? おかしい。おかしいよ。おかしいっ!」
そう言いながら、鏡に拳を叩き込む。
グワッシャ!
鏡が音を立てて割れ、辺りに破片が飛び散った。裕の血も。だが痛いとも言わず茜音の方に振り返る。
「あれは誰? アカネ、あいつのことが好きなの? 違うよね。アカネはゆーたんの恋人だもん。あんなのおかしいって。絶対おかしい」
鬼気迫る表情で茜音の肩を掴んで問いただした。茜音は恐ろしくなってしまった。
ガラスで切れた痛みすら忘れる嫉妬。自分が二人いることの答えが出せない。
裕の心が壊れてしまいそうだ。
裕には分けが分からなかった。成田きゃんのように知性を与えられていない。このことを理解する能力がないのだ。その場に崩れ落ちて床に伏して泣く。
それしか出来ない。
あいつは誰だ?
自分は誰だ?
答えが出ない。
出せるわけが無い。
余りに泣くので茜音は裕を立たせ、ベッドに連れて行った。
裕はしばらくぐずっていたが、そのまま茜音のベッドの上で寝息を立て始めた。茜音もベッドにソファを付けて、裕の手を握って寝た。