第67話 癇癪
次の日。茜音は会社に出勤。自分が頑張ってあの可愛い裕を育てる。そして本当の恋人になるという決意を持って、熱くたぎる思いを仕事にぶつけた。
だが、そう簡単に会社は彼女を変わったとは認めない。長年仕事にならなかった茜音。そういう感情は消えないのだ。
茜音はそれでも構わなかった。恋への情熱だろうか? 子どもを持った母の感情と言うべきか? とにかく彼女の仕事ぶりは変わったのだ。
そんな茜音に同僚の大谷が近づく。茜音には大谷の気持ちが分かった。だが答えることはできない。茜音はそっけなく彼をあしらった。
「なぁ。どういう男?」
「別に普通だよ。てか関係なくない?」
「稼ぎは?」
「あのねぇ。男の価値は給料だけに限らないでしょ」
そうやり取りをしながら、茜音は事務仕事をこなす。大谷のしていることはただの中傷だ。茜音にはそれが分かってなおさらどうでもよかった。
「優しさなんて流行んねーぞ?」
「でも、それが一番いいと思うけど?」
「ふーん。優しいんだ」
「……どうだろ」
「ん?」
「まだ、よく知らないし」
「はぁ? 行きずりのナンパ野郎か?」
何も分かってないクセに。自分のほうが優れているとそうそうに回答を出したがる。茜音は腹立ち紛れに立ち上がり、大谷の肩を押した。
「もう行ってよ! 仕事の邪魔!」
そう言って茜音は再度机に向かった。
大谷はそれでも立ち去らず、しばらく茜音の後ろ姿を見ていたが、茜音のキーボードに自分の名刺を置いた。
「ちょ!」
「これ、裏にプライベート携帯の番号書いといたから。相談事があったら乗るぞ?」
「やめてよ。相談なんてない」
「あっそ」
そう言いながら大谷は自分の仕事に向かって行った。
茜音はため息をついて、その後ろ姿を見ながら大谷の名刺を団扇のように降っていたが、捨てるわけにもいかず、自分の名刺入れの中に入れた。
その頃の裕は昨日と同様にフローリングの拭き掃除をしていた。
歌う歌はやはりスクランブルの歌。全てが頭の中に入っていた。
その横を黒い箱は転がりながら応援していた。
『ゆたか。じょうずだよ。じょうず』
「えへへ! ママ。ゆーたん上手になったよねぇ」
しかし、昨日も掃除したばかりだ。モップの裏面を見ると大して黒くなっていない。裕は昨日ほど自分がちゃんと掃除していないのかと感じたが黒い箱が説明をした。
昨日したばかりだから、埃はそんなに落ちてはいない。だからそんなに汚れていないのだと。
裕はそれが分かってうなずいたが、もう少し掃除がしたい気分だった。成果が欲しいのだ。
トイレのドアをあけて同じように拭き掃除をした。ここではそれなりにモップが汚れた。裕は充実した気分になった。
続いて脱衣所。ここも拭き掃除。ここは大分汚れていたようで、モップは真っ黒になってしまった。
「すごーい。真っ黒だ」
何気に嬉しそうに顔を上げた場所に鏡があった。裕は自分の顔を見た。いい男。さすがアイドルから作られただけのことはある。
だが裕は気付いた。モップを立てかけて自分の顔を撫でまわした。
「これ……。ゆーたんの顔──」
そして廊下に走り出す。廊下や女の部屋に張っているポスター。今までは壁の模様だと思っていた。だが少しばかり知能が増えた。だから分かる。これは自分と同じ顔だ。
だが自分ではない。そんなポーズしたことがない。そんな衣裳を着たことがない。そんな照明を浴びたことは──。
こいつは自分に似たものだ。
これは誰だ。
これは誰だ。
裕はポスターに手をかけ感情的に破り捨てた。
「これ、ゆーたんじゃない! 誰だこれ! ふざけんな! アカネが好きなのはゆーたんだ! なんだコイツ! 誰だコイツ!」
壁、壁、壁、天井。
あらゆる場所に張っているスクランブル邑川裕のポスターを破り捨て床に放り投げる。茜音のベッドの上で癇癪をおこして体を倒し、足をバタつかせながら大暴れ。
しばらく大泣きしていたが、やがて疲れて果てその場で寝てしまった。