第65話 虐待の結果
その頃の裕は、床を丁寧に、丁寧にモップ掛けをしていた。スクランブルの持ち歌を歌いながら。その横には黒い箱が転がっている。
『ゆたか、じょうずだね。じょうず』
「うん」
性格が几帳面なのか、隅々までモップをかけると驚くほどにモップが真っ黒になってしまった。それを見て裕はますます笑顔になる。
黒い箱は裕に食事をするように進めると裕はうなずいて昼食をとった。裕は食事をしながら黒い箱に話しかける。
「ねぇ、ママ」
『どうしたんだい?』
「僕、もっと早く大人になりたい。そしてアカネと結婚したい」
その途端、黒い箱に光りの文字が表示される。
『願い事を言って下さい』
しかしそれはほんの一瞬。黒い箱は自分自身の意志でその文字を消した。
『ダメだ。ダメだ。ダメ──。母さんにそういうこと言っちゃダメ。時間が経てば大人になれるよ。すぐだよ』
「うん」
そう。黒い箱は知っている。現在の邑川裕と同じようになるのに一月もかからない。
すでに体格は大人だ。ただ、赤ん坊から大人になるまでもルートはたどらなければならない。
それが黒い箱が産んだ人間のルール。最初はまっさらな白紙。しかし、本能というべきものは植え付けられている。それは茜音を愛する気持ちと黒い箱を母と思う気持ち。少しずつ成長すると、元となった人間の基本的な能力が芽生えてくる。
裕の成長は現在3~5歳くらいだ。もう少し幼児のまま。そして少年を経て完全な大人となる。
食事が終わって裕は少しばかりお昼寝をした。寝ることは大事だ。15時ほどになって裕は目を覚ますと、またモップを手に取る。
『もう、まっくろだよ。拭いても意味ないよ』
黒い箱にそう言われたが、いわゆる幼児のイヤイヤ期というものなのかもしれない。
裕は反抗して掃除をした。
「やーだ、やーだ。もっとお掃除しゅる~」
『あらら。勝手にしな』
裕が掃除をしている、そのキッチンには口が開いたままのゴミ袋が二つあった。茜音が入れやすいとそのままなのだ。
燃えるゴミと、燃えないゴミ。燃えないゴミの袋の方には空き缶が口まで入っていた。
締めてしまえば良かったのだが、裕にはその知識がない。
モップがゴミ袋に当たると、空き缶が一つカランと落ちた。
「…………」
裕は黙ってしばらくその空き缶を見ていたが、手を伸ばして拾い、もう一度袋に入れた。
カラン──。
入れる場所が悪かったのか、また転げ落ちた。
裕はまた何も言わずそれを拾い上げ、今度は歯を食いしばりながら力一杯ゴミ袋の中央にねじ込んだ。
グリグリと缶をひねり入れる度に他の空き缶もカラカラとこぼれ落ちる。
「これでもか! これでもか! もう落ちるんじゃない! バカ! バカやろう!」
鬼気迫る表情だ。ゴミ袋の一点だけ見つめ、先ほど落ちた空き缶のみを袋の一番下までねじり入れた。
しかしそれによって裕の回りには空き缶でいっぱいになったのだ──。
◇
神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ二世が行った実験がある。
皇帝は産まれて来た子供に言葉を教えなかったら何語を話すのだろうとふと思った。
皇帝は、ヘブライ語を話すと思った。それに間違いないと、産まれたばかりの赤ん坊50人を集め隔離し、スキンシップを一切せず食事や睡眠をとらせて育てた。
結果──。赤ん坊は一歳を待たずして全員死亡した。一人も残らずだ──。
赤ん坊は愛情を持って育てないと異常を来す。
◇
それは裕とて例外ではなかった。彼は大事な赤ん坊の時期を虐待されて育った。水をかけられ、ベルトのムチで叩かれ、殴られ、つねられ、蹴られた。
彼の中で負の思いが出来上がったとしても不思議ではなかった。それが塊となって作りあげられる。本来の邑川裕とは違う、裕という人格を──。
裕は空き缶の中を泳ぐように暴れまわった。床に寝転がってジタバタジタバタともがくように手足を動かした。空き缶がガランガランと音を立てて四散する。
黒い箱も見かねてたしなめる。
『おやめよ。みっともない。じぶんでかたづけるんだよ』
光る文字を表示する黒い箱に、裕はさらに火がついたようになる。
「うるたい! うるたい! バカ! この缶バカ!」
駄々っ子だ。いうことを聞かない。そればかりか汗が出るほど暴れたせいか、そのままそこで眠ってしまった。